「救いの日」

2021年6月20日(聖霊降臨後第4主日)
マルコによる福音書2章23節-28節

「安息日は人間のために生じた。そして、人間が安息日のために生じたのではない」とイエスは言う。これは創世記の創造記事の時系列からもそう言える。人間の創造は、安息日の設定の前である。従って、人間は安息日のために生じたわけではない。まして、安息日は申命記5章で語られているとおり、「あなたの男の奴隷とあなたの女の奴隷が休むために、あなたと同じように」というために生じたのである。創世記の記事には、神の安息が語られているだけであるが、七日目を聖別したと語られている。この聖別は、特に神のものとして取り分けることを意味している。聖別されたということは、神のものである被造世界すべてが神と共に休む日とされたのである。申命記5章ではその意味を明確にするために、「主人であるあなたと同じように、あなたの奴隷たちも休むため」の日と語られている。この「休むため」が「休まなければならない」と解釈され、「休まない」ことは罪であるということになり、安息日にしてはならない項目が列挙されることになった。仕事をしてはならない日ということになったのである。休むための日ということと、仕事をしてはならない日ということは似ているようで、中心が変更されている。

「休むため」に「仕事を離れる」という命令は、休むことを求めている。仕事をしてはならないということは、休むことではなく、仕事をしないということに中心がある。確かに、神もご自身の仕事を離れて、休んだと語られているが、仕事を離れたのは休むためである。人間が創造され、仕事が与えられた後で、休みが設定された。神も人間も休む日というのが安息日である。創世記の2章2節にはこのように語られている。「神は完成した、第七の日において」と。つまり、安息日として聖別された第七の日は創造の完成の日なのである。神が休むことにおいて、完成した日なのである。我々人間が安息日を守るということは、自らの仕事を離れて、それまでの六日間の仕事を神に完成していただく日だと言えるであろう。

しかし、休むということは、仕事を離れるのだから、「仕事をしてはならない」と後に考えられるようになった。これは完成のための休息が、単なる禁止事項になったことであった。それゆえに、禁止されている仕事と見なされる項目が数多く列挙された。その中に、脱穀もあった。麦の穂を手で揉んでいた弟子たちは空腹であった。それゆえに、誰でも取って良いとされた道ばたの麦の穂を摘んで、揉んで食べていたのであろう。これを見たファリサイ派が批判した、「彼らは仕事をしている」と。これに対して、イエスはダビデの故事を引き合いに出して、禁じられていることをしたとしても、いのちのためであれば許されるのだと応じた。その上で、安息日が生じた目的は、人間のためであって、人間が安息日に縛られているのではないと言った。

これだけであれば、聖書解釈の相違となっていたであろう。しかし、最後にイエスは言う。「主として存在している、人間の息子、人の子は、また安息日にも」と。この「また安息日にも」という言葉が語られたがゆえに、イエスは安息日の主なのだという解釈も出て来た。しかし、ここでイエスがおっしゃっているのは、他の日にも「主」であり、安息日にも「主」である人の子、メシアについてである。つまり、メシアである人の子は、平日も安息日も主として支配しているという意味である。それゆえに、人の子は安息日にしてはならない仕事をしても良いのだという意味ではない。そうではなく、メシアの働きが「救い」の働きであることから、考えるべきである。

人の子という言い方は、ダニエル書以来、救い主メシアの表象とされてきた。イエスの時代には、人の子への期待も高まっていたが、それは自分たちの国イスラエルをローマの支配から解放して、新しい国を造ってくださる救い主が来たるという期待である。イエスは、そのようなメシア像には与しなかった。自分たちの国の救いを求めているのは、国の利益に与っている指導者層であって、末端の人間たちはとにかくその日のいのちを食いつないでいくことを求めていた。そのような社会にあって、空腹であった弟子たちが麦の穂を摘んで食べたとしてもおかしくない。彼らはいのちを食いつながなければならなかったのだ。ダビデもそうであった。そのために、禁じられていたことを行ったとしても許された。神はそれでダビデを罰したわけではない。罪人としたわけでもない。まして、安息日は創造の完成の日であり、すべての存在が休みによっていのちを回復する日なのである。創造の完成に与って、いのちを回復して、新たな週を生きて行くための日。それが安息日である。もちろん、この日は神の言葉のみに耳を傾ける日である。なぜなら、神の天地創造は言葉によって行われたからである。その完成の日に、神の完成した「極めて良い」、「極めて美しい」世界を見る。神の安息の言葉を聞くことによって、神の世界を見るのである。

安息日はそのような意味において、「救いの日」である。救い主である人の子が平日も安息日も主として支配しておられることを知る日でもある。いのちを回復するために、人の子が来てくださり、働いてくださったことを知る日である。我々が労苦した中で、働いてくださったお方が救いを完成してくださる日が安息日。それゆえに、平日と安息日を分けるような考え方にイエスは反対する。平日は人間のための日、安息日は神のための日と分けて考えることで、我々は自分の日を確保しようとする。七日間の一日だけを神のために取っておけば、六日間は自分のための日になると考える。あるいは、七日目は特別な日としてその日だけ特別に神を覚える。このような考え方にイエスは反対している。「人の子は、安息日にもまた主として存在している」とイエスがおっしゃるのは、他の六日間にも主として存在しているがゆえである。つまり、すべての日が主のものであり、人の子の日なのである。すべての日が救いの日である。すべての日がいのちを回復する日である。

安息日が人間を支配しているのではない。また、人間が安息日を支配しているのでもない。主である救い主メシアが支配している。いのちを完成するために支配している。すべての日を支配しておられるがゆえに、いつであろうといのちは完成へ向けて生きている。いつであろうといのちは供給される。いつであろうといのちは保たれる。安息日をそのように守るとき、申命記に記されている「あなたの男の奴隷とあなたの女の奴隷が休むために、あなたと同じように」という神の言葉が実現するのだ。

このように語られている安息日は「救いの日」である。いのちを回復する日である。ただ、主のみが支配し給う日の中で、我々は休みを得て、いのちを回復される。神の言葉だけに心を向けて、いのちを回復される。神の愛をいただいて、いのちを回復される。神がこの日に礼拝を設定してくださったのは、我々が神の言葉のみに心を向けるためである。

礼拝に参与するということは、神の言葉のみに心を向けて生きる生き方を、週日も行うことができるように学ぶためである。仕事をしていても、心に平安があり、神の言葉によっていのちを回復されていくためである。礼拝に与るということは、このような生き方を週日も行うためである。我々の日々は、神が創造した日々。神の創造が行き渡っている日々。神の憐れみが行き渡っている日々。この日々を主の許で生きて行くために、神は礼拝を設定してくださった。神の設定における礼拝において、キリストはご自身の体と血を、我々に与えてくださる。我々のいのちが回復され、神のものとして我々が生きて行くために、キリストはご自身を与えてくださる。今日もまた、キリストの体と血に与って、キリストのいのちに満たされて、この週を生きて行こう。我々のために、安息日を創造してくださった神と、我々のために十字架に架かってくださったイエス・キリストによって、我々はいのちを回復される。この救いの日を喜び祝おう。あなたは神の安息に入れられたのだから。

祈ります。

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