「悲しみの怒り」

2021年6月27日(聖霊降臨後第5主日)
マルコによる福音書3章1節-12節

「しかし、彼らは沈黙した」と述べられた後、イエスが「怒りと共に、彼らを見回し、彼らの心の固さについて共に悲しんでその人に言う」と述べられている。イエスが問いかけた「安息日に合法である」ものはどちらかという言葉に対して、人々が沈黙したからである。どうして沈黙したのか。

沈黙するということは、本当のことが分かっていながら、本当のことを認めたくないがゆえである。この在り方に対して、イエスは「怒りと共に見回した」のである。真実を認めながら、なかったかのように沈黙する人間の在り方。これが原罪であることをイエスはご存知である。しかし、彼らは原罪だとは思わず、自分たちの立場を守るために、沈黙する。聞こえなかったかのように、あるいは無かったかのように、沈黙する。自分たちは原罪に支配されてはいないかのように沈黙する。イエスはこの在り方を悲しむ。彼らと共に悲しむ。

「共に悲しむ」という言葉は、文字通り、相手と共に悲しむことであり、一緒に悲しむ、同情することである。つまり、イエスは心の固い人間たちに同情し、彼らもまた本当は悲しんでいることを承知で、怒りと共に、悲しみを感じたのである。イエスは「悲しみの怒り」を怒った。「悲しみの怒り」を悲しんだ。そこには、憐れみだけではなく、人間たちに心の固さをもたらしているものへの怒りがある。イエスの心には「悲しみの怒り」が満ちている。ご自身の心を彼らに示すために、イエスは枯れた手を持っている人に言う。「伸ばせ、その手を」と。

怒りを伴った言葉が発せられ、その人は思わず伸ばした、彼の手を。そして、「回復された、彼の手は」と記されている。思わず伸ばしてしまうほどに、イエスの言葉は強く、その人に響いた。伸ばせるか、伸ばせないかと考える暇もなく、伸ばしてしまった。これは、その人の意志ではなく、イエスの意志が起こしたことである。その人はイエスの言葉に促されて、ただ伸ばしたのだから。

イエスがご自身の意志によって伸ばすことを語ったがゆえに、イエスの言葉がその人の手を伸ばさせた。それは、再創造の言葉である。ここで使われている「回復する」という言葉は、アポ-カシステーミというギリシア語で、「元へ」と「立つ」という言葉からできている。元のところへ立つことであり、回復であるが、元に戻るというよりも破壊されていたものが新たに再創造されたと取るべきであろう。なぜなら、イエスの言葉がその人の不可能を可能にしたのだから。その人の力ではなく、イエスの言葉の力によって回復され、元のところへ立たされたのである。

この回復という言葉が示しているのは、本来の起源に回帰することであり、起源から再創造されることである。それと同じ思考の言葉が「合法である」エクセスティンという言葉である。その言葉は、起源から存在しているという意味である。イエスは「起源から存在している」のは「善を行うことか、悪を行うことか」と問うていると言える。起源からとは、神の意志によって存在しているのはという意味であるから、当然「善を行うこと」が「適法に存在している」のである。この起源から存在することと、元の場所へ立つことは同じことである。

元の場所から外れていたものが元の場所に立つことは、起源から存在していたものが認められることである。枯れた手を持っている人は、その起源において「伸ばすことができる」手を与えられていたのだ。それを回復することは善である。これは本来性を回復することであり、別の何かを造ることではない。本来性が見失われていたところで、本来性が見出されるようにすること。それが、イエスがここで行ったことである。当然、それは「善」である。この「善」を理解しているにも関わらず、認めることなく、沈黙する人々。この人たちは、善を認めたくない。自分たちが、安息日の癒やしを合法と認めることになるからである。イエスを批判したいにも関わらず、イエスの癒し行為を認めることになるからである。それゆえに沈黙した人々。この在り方こそが、原罪であり、枯れた手を持つ人を苦しめてきた社会の在り方なのだ。

会堂に集まっている人たちは、そのことを知っている。知っているが、仕方ないとあきらめている。枯れた手を持っているその人の運命なのだと、あきらめさせようとしている。自分たちはどうにもできないのだと自分にも言い聞かせている。悲しいことだが、人間はこのように他者の苦しみを見て見ぬ振りをするのだ。こうして、病を負う人たちの苦しみは増していく。このような社会に対して、イエスは怒りを持ち、社会と共に悲しむ。そして、ご自身がすべての非難を引き受ける。枯れた手を持った人を癒して、非難されることを引き受ける。「その手を伸ばせ」とイエスは言う。

この言葉の中に、イエスの悲しみの怒りが込められている。社会を悲しむ心がある。枯れた手を持つ人の悲しみを生み出している社会の悲しさ。これを怒りつつ、ご自身がすべてを引き受けて、言葉を発する。再創造の言葉を発する。「その手を伸ばせ」。この言葉を通して、イエスはご自身が十字架に架けられることを見通している。この人の苦しみを引き受けて行くことを決断している。十字架の上に至るまで、イエスはこの人の苦しみと社会の悲しみを引き受けて行く。それが、イエスがここに置かれた意味である。神によって、この場に置かれた意味である。枯れた手を持つ人を見たのだから、何もせずに立ち去ることはできない。神によって見せられたのだから、神の意志を、起源に立ち帰って実行する。それが、イエスの使命なのだ。

この使命に応えるように、ファリサイ派とヘロデ派が、イエス殺害を謀議した。イエスが神の意志に従って、行動した結果、殺害計画が進行する。枯れた手を持っている人は、そのためにイエスに出会ったかのようである。しかし、この人が存在していたがゆえに、イエスは社会への悲しみの怒りを持った。この人を引き受けるために、十字架を見定めながら、言葉を発した。真実を根源から問い直すために、人々に語った。これら一連の出来事が、神の根源的意志から発している。そして、神の根源的意志に反対する根源的罪が発動した。

イエスの行動が、イエスの言葉が、原罪を発動させてしまった。原罪によって、イエスが殺害される道が開かれてしまった。それでもなお、イエスが枯れた手を持っている人の手を伸ばさせたのは、社会が持つ悲しみが明らかになったからである。真実を実行したいと思いながら、周りを見て沈黙する。真実が実行されるべきだと分かっていながら、沈黙して、無かったことにする。真実が実行されることが善であると分かっているが、自分が非難されないために、関わりを断つ。これが我々人間の原罪であることが明らかに見えている。ファリサイ派だけではなく、会堂に集まっているすべての人に働いていることが見えている。我々人間は原罪を制御することができない。究極まで行かなければ、止めることができない。これが原罪の恐ろしさである。そして、沈黙することの残酷さである。

我々は沈黙して、罪を犯す。関わらないことで、罪を犯す。無視することで、罪を犯す。神の意志を知っていながら、罪を犯す。神の意志を無視することで、罪を犯す。罪を犯しているとは思わずに、罪を犯す。仕方ないではないかと、罪を犯す。これが我々である。これが罪人である。これが社会である。善を求めてはいないことが明らかである社会。他者の苦しみを見捨てて、安心している社会。自分を守るために、誰かを切り捨てる社会。大多数のために、少数者を切り捨てる社会。弱い者たちを見捨てて、安穏と生きる社会。我々の世界は原罪に支配されている。原罪の社会である。ここから抜け出すことは、我々の意志では不可能である。イエスが怒りを持って悲しんでくださるがゆえに、我々は救われていく。イエスの言葉によって、救われていく。「その手を伸ばせ」とおっしゃるイエスによって、我々は救われる。イエスが語り続けてくださる言葉だけが真実。この言葉だけがあなたを生かす。イエスの言葉に促される幸いを共に生きて行こう。

祈ります。

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