「外に立つ者」

2021年7月4日(聖霊降臨後第6主日)
マルコによる福音書3章20節-30節

「彼らは言っていたから、彼は外に立っていると」と言われている。「気が変になっている」と訳されている言葉は、エクシステーミというギリシア語で、「外に」と「立つ」からできている言葉である。自分の外に立つという意味で「気が変になっている」と訳されることになっている。それは本来立つべき場所に立っていないことを表している。しかし、20節では「彼は家へと行った」と言われている。イエスがおられる家の外に立っているのは、彼の身内の者たち。イエスは家の中にいる。イエスを縛り上げて、家の中にいる者たちを解放しようとしているということである。イエスがおられる家は、外に立つ者であるイエスに支配されていると人々は考えている。イエスがおられる家は、既存の価値観から離れた「外に立つ家」だということである。それゆえに、律法学者たちは「彼はベルゼブルを持っている」と言い、「悪霊の頭において、彼は追い出している、悪霊たちを」とも言っていた。悪霊の頭を持つイエスが悪霊を追い出し、悪霊の頭の家に人々を取り込んでいると言うのである。この論理のおかしさをイエスはたとえで語る。

家というものは、ひとつの価値観を表している。その価値観は、悪霊の頭であろうと悪霊であろうと同じである。それゆえに、悪霊の頭が悪霊を追い出すということ自体に、論理の破綻が示されている。これをイエスは「家の分裂」として語っている。「成り立たない」と訳されている言葉メリゾーというギリシア語は「分裂する」「分けられる」という意味である。それゆえに、家自体が「成り立たない」と訳されている。律法学者たちや身内の者たちの論理が破綻していることをイエスはたとえで語っている。そして、その家を奪い取ろうとする者たちは、家の中で一番強い者を縛り上げて、家を奪うのであると述べる。つまり、律法学者や身内の者たちは、イエスを縛り上げて、病人や罪人たちを奪い取ろうとしているとイエスは批判しているのである。

イエスの家は、「外に立つ家」であり、イエスは「外に立つ者」である。それは、この世の既存の価値観の外に立って、神の意志に従うところに立っているからである。このイエスの家の外に立っている者たちこそがイエスを縛り上げて、家を奪う者たちである。その人たちは、既存の価値観の中で自己の権益を守ろうとしている。慣習を守ろうとしている。しかし、既存の価値観に縛られている者たちを隷属状態から解放しているのがイエスであることを知らない。いや、知ろうとしない。それだけではなく、既存の価値観の中に縛り付けて、自分たちが安心していられる価値を守ろうとしている。そこには、自分のことしか考えない思考が働いている。その思考こそが論理破綻に陥っているのだとイエスは言うのだ。

そのような者たちは「聖霊を冒涜する者たち」だとイエスは言う。どうしてそうなのか。イエスを縛り上げることが聖霊を冒涜することなのだろうか。だとすれば、イエスは聖霊に従って生き、聖霊に従って考え、聖霊に従って動いていることになる。そうである。イエスの行為は、聖霊に従う行為であり、神の意志に従う生き方なのである。イエスは自分の立場など考えてはいない。自分の権益を守ろうともしていない。病人たちや罪人たちのいのちを守ろうとしている。弱い人たちの立場に立っている。それが「外に立つ者」としてのイエスである。既存の価値を覆すのは、「外に立つ者」である。外に立っていなければ、既存の価値観の論理的破綻が見えないのである。弱い者たちの立場に立っていなければ、強者の論理の破綻が見えない。苦しむ者の立場に立っていなければ、搾取する者の論理の破綻が見えない。「外に立つ者」は、社会の外に立っている。社会の論理的破綻を見ている。社会の罪深さを見ている。社会というひとつの家を守るために、弱い者、罪人、病人を外に追い出す。これが我々の社会である。イエスの当時と何も変わらない罪深い社会である。

我々は、この社会で生き難さを抱えて生きている者であった。社会と同じように生きることを求められて、苦しんでいた者たちであった。しかし、イエスの言葉を聞き、イエスは嘘をつかないと信じた。イエスは義しいことを行っておられると信じた。イエスについて行こうと信じた。それが我々キリスト者である。イエスと同じように、神の意志に従うように生きて行こうとイエスの家に入った。我々は、イエスの家の中で生きる。社会の外に立つ者であるイエスの家の中で我々は生きている。それゆえに、社会の罪深さを知っている。社会の中で生きていたときの自分の罪深さも知っている。社会の中で声を上げることができず、苦しかった自分の罪を知っている。それゆえに、イエスの家の中に生きる我々は、外に立ったのだ。この罪から離れようと、外に立ったのだ。これを忘れてはならない。

「外に立つ者」の家に入ったのは、我々自身の力ではない。聖霊の導きによって、イエスの家に我々は招かれたのだ。聖霊の働きを受けている我々が、聖霊の働きを否定するならば、聖霊を冒涜することになる。そればかりではなく、今の自分自身を否定することになる。神によって罪赦された自分を否定するのだから、神を否定することになる。それゆえに、我々の罪は永遠に残る。

あなたは、今ここに置かれている。聖霊によって置かれている。聖霊が働いていなければ、あなたはイエスの家にはいないのだ。聖霊の働きは、我々人間が感覚的に捉えることができるようなものではない。信仰的に捉えるものである。この信仰さえも神が与え給う信仰である。我々は何も持たず、何もできなかった。にも関わらず、神はイエスを送り、我々を救ってくださった。社会の外に投げ捨てられていた我々を救ってくださった。この恵みを、自分の力であるかのように考えるとき、我々は聖霊を否定している。聖霊の働きを肯定することは、今あなたが置かれているイエスの家の中で喜び生きることである。如何なることがあろうとも、イエスがわたしを見捨て給うことはないと信じて、イエスの家に留まることである。この家の中で、分裂なく生きることである。

我々は、社会の中で分裂した自分を生きてきた。世間体に振り回され、強者の論理に従わせられ、あるときは右に、別のときには左にと動かされていた。時の権力によって振り回されるがゆえに、自分がどこに立っているのかさえも分からなくなっていた。神に造られた存在であることも忘れて、自分の力で上手く泳いでいこうと必死になっていた。このような社会の「外に立つ者」イエスが来てくださったので、あなたは揺らぐことなく立つ場所を与えられた。イエスの家という生きるべき場所を与えられた。そこから離れてはならない。そこから出て行ってはならない。あなたは、未だに原罪をうちに持っているのだから。この家の中で、癒されて、原罪を働かなくしていただくことに心を向けていこう。分裂した社会ではなく、ひとつの心、神の意志に従った統一された家の中に留まっていよう。イエスの言葉を聴き続けながら、少しずつ癒されることを経験して行こう。

あなたの魂の家は、キリストの教会なのだ。あなたの魂が自由を得て、自由に神の意志に従い生きるように癒してくださる魂の家。それがキリストの教会である。キリストの礼拝である。キリストの言葉を聞く家である。キリストの言葉そのものが、あなたの宿るべき家。あなたを迎え入れてくださる家。あなたを癒し、力を与えてくださる家。

あなたは、この家の中で、イエスの体と血をいただく。あなたのうちに生きたいと願ってくださったキリストがあなたのうちに形作られるために、聖餐は設定されている。キリストの言葉によって設定されている。使徒パウロが言うように、「もはやわたしは生きていない。しかし、生きている、わたしのうちに、キリストが」という事態があなたのうちに生じるために、設定された聖餐。キリストの言葉に従って、キリストの体と血をいただき、信仰をもって受けよう。あなたのためにご自身を献げてくださったキリストの心を、あなたは自分の口で、自分の喉で受けるのだ。あなたのうちに入り来たり給うお方を喜び迎えよう。

祈ります。

 

 

Comments are closed.