「地の上の神の国」

2021年7月11日(聖霊降臨後第7主日)
マルコによる福音書4章26節-34節

「そのように存在している、神の国は、人間が種を蒔くように、地の上で」とイエスは言う。神の国の存在様態は、地の上での種まきのようであると言う。地の上に神の国の存在様態が現れている。地の上で、神の国は姿を現している。神の支配が見える形で、地の上に示されている。イエスはこのように言って、「地」による「自ずから実を結ばせる」働きが、神の国の現れであると述べている。つまり、神の国、神の支配は、神ご自身が「自ずから実を結ばせる」働きなのである。この働きの中に、神の国は生きている。国という領域ではなく、支配する様態としての神の国をイエスは語っておられる。

神の国という言葉は、国という領域を語っているのではない。国としての働きを指している。国の中に生きるすべての存在のために善きことをなし、守る働き。すべての存在に仕える働き。それが神の国と言われるのであり、実質的には神の支配する働きのことを指しているのである。その働きは、人間が知ることができない隠れた働きである。

人間は、見えているところだけを見て、隠れた神の働きを知らずに生きている。見えているところだけがすべてだと思っている。ところが、神の働きは隠れているがゆえに、見えているところだけでは分かりようがないのである。人間は「寝て、起きる、夜昼」とイエスが言うのは、人間が行なっていることを極端に縮めて述べている。これは、見えている人間の姿である。「寝て、起きる」人間が何も知らないように、神の国の働きは知られないところで起こっている。

そうであれば、神の国は天において働いているだけではなく、地の上でも働いている。確かに、天においても地においても、神の支配は完全にすべてに浸透している。天においては、すべてがその支配に従っている。ところが、地においては、神の支配に従う存在と従わない存在に分かれる。地の上の自然は神の支配に従っているが、地の上の人間は神の支配に従っていない。つまり、人間以外の天地のすべては神の支配に従い、神の国に生きている。人間だけが神の支配を拒否している。自分たちの見えている世界をすべてだと思っている。「寝て、起きる」だけにも関わらず、すべてを支配していると思い込んでいる。それが原罪の結果である。天地の中で、唯一従わないのが人間なのである。

原罪を抱えている人間が、神の国を自分たちに都合の良い世界として思い描く。すべての存在が認められ、すべての存在が傷つけ合うことなく、愛し合う世界を思い描く。そのような世界が来たることを期待しながら、従わない存在を排除する。病人や罪人たちを排除して、自分が労苦することなく、責任を負うことなく、誰かの所為にしてしまう。自分自身が従っていないのに、他者を批判する。自分がすべてを分かっていると思い上がり、神になろうとする。自分の考えに賛同しない存在を否定する。これが我々の罪である。そして、神の国を拒否する我々人間の姿である。素晴らしい理想を抱いているが、自分自身が神の働きを受け入れず、理想を他者に押し付ける。

このような我々の姿にも関わらず、働いておられる神の姿をイエスはこのように表現している。「種は芽を出し、成長する、その人が知らないように」と。人間は種を蒔くだけであり、知らないうちに、地が「自動的に実をもたらしている」とイエスは言う。実際には、水や肥料を与え、雑草を取るであろう。しかし、結局は人間が何も知らないうちに実がもたらされる。これが神の支配、神の国だと言う。ということは、我々人間の力の及ばないところで、神が働いておられること。これが神の国、神の支配なのである。従って、我々人間の工作にも関わらず、神の支配だけが遂行される。我々には、神の支配を動かすことはできない。これを弁えることが我々人間に求められている神の支配に服する在り方である。では、どのようにすれば、我々はこの在り方を生きることができるのか。

我々人間の原罪がこの在り方を否定し、拒否し、覆してきたことを考えれば、我々人間がこの在り方に自分から従うことはできないであろう。神が我々をして、従うようにしてくださらない限り、我々は神に従うことはない。それゆえに、イエスは神の国をたとえで語る。たとえでなければ語り得ないのではあるが、たとえであれば聞く耳のある者が聞くからである。聞いて、考える者であれば、何が語られているのかを知ることができるであろう。たとえも、ここで語られている「種」と同じなのである。

イエスは、たとえという神の国の種を我々の上に蒔く。その種が芽を出し、成長するのは、我々が神の支配に服しているときである。地が神の支配に服して、「実をもたらす」働きをなしているように、我々人間一人ひとりの中で服すべき者が服するとき、実をもたらす。それゆえに、たとえという種の形でイエスは語り給うた。「種」の中には、すべてが詰まっている。将来の姿が詰まっている。自ずから実をもたらすように詰まっている。それを支えるのは地である信仰なのである。この信仰を受け取っている存在が信仰者であり、信仰者は自ら信仰者となったのではなく、神によって信仰者とされたのである。このような存在が地として生きるようにされたとき、地の上に欠けていたものが満たされる。如何に不信仰がはびこっているとしても、地としての信仰が広がっていく。最後まで残るものが広がっていく。こうして、地の上の自然と同じように人間もまた回復されていくであろう。これが、イエスがたとえで語る理由である。

「自動的に実をもたらす」地は神が造られた。「自動的に実をもたらす」ように造られた。地は造られたように生きている。我々人間は造られたようには生きていない。土壌改良が必要である。土壌改良は神の仕事。我々人間の仕事ではない。我々は造られた存在として、造られたように生きるだけ。そのために信仰が必要なのである。この信仰を目覚めさせるのは、イエスの言葉である。イエスの創造の言葉であるたとえなのである。たとえを聞いて、耳を開かれるものが起こされる。それは、罪の自覚である。自らが神の意志に反して生きていたことを自覚すること。たとえは、この自覚を促す。自然の姿を極端に語ることによって、神の支配に服する生き方が如何なるものであるかが語られる。その言葉を聞いて、自らを顧みる者は改良されていく。信仰を与えられ、改良されていく。だとすれば、たとえは種であると同時に、地でもある。信仰という種を受け入れる地を我々のうちに芽生えさせる地。それがイエスのたとえである。従って、我々がイエスのたとえを聞き続けることは、我々自身が地として改良されていくことでもある。そのとき、地の上の神の国は広がっていく。空の鳥を宿すほどに広がっていく。如何に小さな我々人間であろうとも、他者のために用いられる地へと改良されていく。イエスは、そのために語り続けておられる。

今日、イエスが我々に語っておられる心は、我々がイエスのたとえという種を受け入れる地となるようにという心である。この心を受け入れるとき、あなたは神の国、神の支配を生きる者とされていくであろう。イエスのたとえは、あなたを良きものとしてくださる神の働きを宿している。イエスの言葉は、あなたが自ずから実をもたらす地となっていくために語られている。ひたすら聞き続ける者は幸いである。たとえを良く聞き、たとえに込められた神の愛、神からの信仰を受け取る者は幸いである。地の上の自然と同じように生きる存在を「神の子」と聖書は言うのだ。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように語っている。「被造世界の切なる期待は、神の子たちの啓示を熱心に待っているから」と。そのために、「被造世界すべては共にうめいている、そして陣痛を苦しんでいる」と。神の子たちが覆いを取り除かれて現れるとき。それが神の国の完全な到来である。神の支配が被造世界すべてに浸透するときである。我々キリスト者は、神によって造り替えていただくことを期待しながら、イエスの言葉を聞き続けていこう。あなたは神の子として生きることを期待されているのだから。

祈ります。

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