「被造物の従順」

2021年7月18日(聖霊降臨後第8主日)
マルコによる福音書4章35節-41節

「鎮まれ。口を閉じよ」とイエスは、風と海に言う。被造物である風と海は、イエスの言葉に従う。被造物の従順が生じ、風は鎮まり、波は口を閉じた。この出来事を見て、弟子たちは言う。「この方はいったい誰なのか。風も海も、彼に聴き従うとは」と。旧約の日課であるヨブ記に記されている通り、イエスは風と海を押し留める。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じる神ヤーウェのように、イエスの言葉がすべてを従わせる。イエスは神なのかと弟子たちは思った。そうである。イエスは神。イエスの言葉は、被造物を従わせる力を持っている。創造の言葉をイエスは語っている。しかし、イエスの言葉に従うのは、被造物のみ。弟子たちも含めて、人間はイエスの言葉に従わない。どうしてなのか。人間だからである。人間だけが神の言葉、神の意志に従わない。それがこの嵐の海での出来事が示していることである。

弟子たちは、イエスの力に驚くが、彼らもまたイエスのようになりたいと思ったであろう。我々人間は最初の時からそうであった。神のようになりたい。すべてを自分の思い通りに動かしたい。それが人間の堕罪の原因である。そのような思いを抱くだけではなく、その思いを実行してしまったことが堕罪の原因であった。人間は神のようになろうとして、被造世界を破壊する方向へ生きることになった。堕罪後の世界においても、悔い改めることなく、人間は神のようになりたいという思いを捨てることができない。神のようになることが至上命令であるかのように生きている。少なくとも、人間の世界において、神のように支配権を行使することが、自分が認められることだと思う。こうして、人間の世界には支配権闘争がまん延している。

弟子たちがイエスを起こすのも同じ理由から。自分たちが滅びてしまうことを何とも思わないのかとイエスを起こす。自分たちは滅びてはならない存在なのだと思っている。誰がそう決めたのか。人間が滅びる方が世界にとっては良いことなのに、自分たちが滅びることが悪いことになると思っている。人間がいない方が、被造世界は平和である。人間がいるがゆえに、動植物は生きる世界を狭められ、地球全体が破壊されている。存続の危機にある地球が人間を滅ぼそうとしてもおかしくない。しかし、被造世界は人間を滅ぼそうとはしていない。自分たちが生き延びる道を何とかしようと、自分自身を変化させて生き延びようとしている。人間は共存できない存在。自分たちだけが生きようとする存在。共に生きることができないのが人間なのである。それが世界を破壊する原罪に支配された人間の根源的姿である。

それでもなお、イエスは、そして神は、人間の滅びを望んではいない。助けを求められれば、助けてくださる。必要なときに、人間を守ってくださる。神は、ご自身が創造した世界を守ると同時に、ご自身が創造した人間をも守ろうとなさる。神の似姿として創造された人間を守ろうとなさる。被造世界が人間を滅ぼすことを望みはしない。被造世界が神の意志に従うことを望む。もちろん、人間にも神の意志に従って欲しいと願っている。それゆえに、被造物の従順が何によって生じるのかをイエスは示す。「鎮まれ。口を閉じていよ」と風と海に命じて。

鎮まらねばならないのは、風と海だけではない。我々人間も鎮まらねばならない。口を閉じなければならないのは、風と海だけではない。我々人間も口を閉じていなければならない。我々人間はあまりにしゃべりすぎる。あまりに自分の意志を押しつけすぎる。あまりに自分たちの支配を広げすぎる。結果的に、自分たちが自分たち自身の首を絞めていることを知らない。いや、分かっていても、自分たちで何とかできると思っている。それゆえに、神さえも自分たちのために用いようとする。イエスさえも、自分たちの救いのために用いようとする。

救いは、救うお方の意志に従って行われるもの。「助けてください」と誰かが祈ったとしても、神の意志が優先する。それは、イエスのゲッセマネの祈りに示されている。イエスの意志ではなく、神の意志が実現することがイエスの意志であった。舟の上で、イエスに助けを求める弟子たちの言葉にも、イエスを従わせようとする意志が働いている。自分たちが滅びることを何とも思わないとは、何ということかと、イエスに迫っている。結局、弟子たちもイエスを自分たちの思いに従って動かそうとしている。これが原罪の結果である。

このような人間をイエスは助けなければならないわけではない。それゆえに、風と海が神の意志に従うことを、イエスは示し給う。イエスの行為は神の示威行為である。被造物は神の意志に従うのに、お前たちはどうか、と問うている。それに対して、弟子たちは驚くだけ。驚くしかないのではあるが、その驚きの結果、このお方はどういうお方なのだと考える。イエスの従わせる力に驚き、そのようなお方が自分たちのそばにいることを誇らしく思ったであろう。そして、自分たちは特別なのだと思ったであろう。結局、人間はこのように自分を誇るところに至る。ひいては、自分がそのような力を手に入れたいと考える。こうして、我々のうちに住む原罪は、我々を神から引き離し、神のようになる意志を起こしてしまう。イエスが示し給うた被造物の従順の姿は、自分自身が受け入れなければならない姿だとは思わない。自分自身がそのような従わせる力を得たいと思う。それができなければ、従わせる力を持っているイエスがそばにいれば、何も恐れる必要は無いと考える。我々はどこまでも不従順である。

被造世界が従順に生きていようとも、我々人間が不従順であるがゆえに、世界は破壊されている。それゆえに、被造世界は神の子の覆いが取り除かれる希望を抱いていると使徒パウロは言ったのだ。それが実現するのはいつのことか。終わりの日を待たなければならない、我々人間の不従順がまん延しているのだから。我々人間の罪が最高潮に達して世界が破壊されるときまでは、人間の不従順は止まることはない。そのときになって、ようやく神ヤーウェが言う言葉、「ここまでは来てもよいが越えてはならない。」を理解するであろう。我々人間は、すでに多くの越えてはならない境界を越えてしまっている。波が越え、川が越えるのは、我々人間がその境界を越えてしまっているがゆえである。越えてはならない境界を越えて、水の中へ、空の上へと進出したがゆえである。それゆえに、境界が破壊され、人間を守るようにと神が定めた境界が失われる。人間だけが境界を破壊し、境界を越えて進出する。境界を越える不従順の結果を被るのは、人間界の弱い存在。弱い存在が最初に被害を受ける。強い存在は、高台や安定した広いところで自分を守っているがゆえに、弱者の苦難を理解しない。自分たちの不従順の結果を被っている存在に対して、お前たちが弱いからいけないのだとうそぶく。もっと自助努力せよと言う。こうして、世界を分断し、自分たちの世界を守るのは強い者たち。権力者たちは、末端の弱い人間たちにすべてを押しつけて分断を生んでいる。これが我々人間の世界。原罪の世界。分裂の世界。神への不従順を生きる世界。このような世界がいつまで続くのか。終わりはいつ来るのか。弱い存在が守られる世界がいつ来るのか。不従順が従順へと変えられるのはいつのことなのか。被造世界はうめいている。弱者もうめいている。強者だけが安泰を決め込む。

被造物の従順を示し給うたイエスは、この世界のおかしさを示し給うた。我々人間がおかしくしてしまったとしてもなお、被造物は神の意志に従っていることを示し給うた。風と海がイエスの言葉に従う姿に、我々は耳を傾けねばならない。我々人間が、神の意志に従い、越えてはならない境界を越えない生き方をなしていく存在とされるために、イエスはご自身の体と血を我々に与え給う。我々がキリストの十字架と同じように神の意志の実現を喜ぶようにと、ご自身を与えてくださる。不従順なわたしのうちに、キリストが形作られ、神の意志に従う喜びを生きる者とされるために、今鎮まり、口を閉じて、イエスに従って行こう。

祈ります。

 

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