「真理を生きる」

2021年7月25日(聖霊降臨後第9主日)
マルコによる福音書5章21節-43節

「彼女は彼に言った、すべての真理を」と言われている。「すべてをありのまま話した」と訳されている言葉は「すべての真理を彼女は言った」である。真理は何も隠さないこと。彼女が語った言葉が「真理」そのものであり、「真理」が彼女を通して現れたことでもあろう。そこで語られた「真理」は、彼女が常日頃言っていたこと、その通りに行動したこと、行動の結果が彼女の体に現れたことすべてなのである。彼女は言っていた、「彼の衣服のものに触れるなら、わたしは救われるであろう」と。この言葉を実行した。そして、彼女の長血は癒された。しかし、「救い」は救われた事実を宣言されることで堅くされる。そのために、イエスは彼女を探した。彼女自身が隠れて癒されることがないようにと、彼女を探した。隠れて癒されるならば、それは救いにはならない。起こったことすべてを隠さずに語ることで、起こったことすべてが「真理」として現れる。現れた「真理」が彼女を自由にする。彼女の罪から解放する。そのために、彼女をイエスは探した。

女は、進み出て、「彼に言った、すべての真理を」と言われている。「すべての真理」は、そのように語る彼女のすべてである。イエスが探した彼女のすべてである。そして、彼女はイエスの言葉を聞くことになる。「娘よ、あなたの信仰が救った、あなたを」と。この場合、「信仰」は「真理」と同義である。なぜなら、彼女が救われると信じて、語り、実行したことが「真理」であり、その「すべての真理」が彼女を救ったからである。しかも、その真理はイエスの存在を含めた「真理」なのだから「信仰」なのである。

イエスが彼女にこの「真理」を「彼女の信仰」として宣言することによって、彼女の「救い」が堅くされた。彼女が隠れる罪から解放されることが実現した。それゆえに、彼女に与えられた「信仰」が彼女の中で堅くなったのである。その彼女に、イエスは続けて言う。「あなたの鞭から、健全に存在せよ」と。「あなたの鞭」とは病のことであり、病から解放されて、「健全に存在せよ」という意味である。この宣言をもって、イエスは彼女の信仰的健全さを堅くした。

ところで、今日の出来事において、不思議な言葉が語られている。それは「娘」シュガテルというギリシア語である。長血の女は、最初は「女」ギュネーという言葉で表されていた。ところが、癒されたのち、イエスは彼女をシュガテル「娘よ」と呼ぶ。このシュガテルという言葉は、女性から生まれた子孫のことを指す。年齢とは関係なく、女性の子孫はすべて「娘」である。おばあちゃんでも「娘」である。幼児でも「娘」である。「娘」とは少女や幼女だけではなく、大人の女性も含む言葉なのである。それゆえに、ヤイロの12歳の少女も「娘」。長血の女が「娘」とイエスに呼ばれることによって、真理を生きることになったとすれば、12歳の少女も同じく「娘」として真理を生きるということである。これは、誰かのこどもということを越えて、女性の子孫として「娘」となって生きることを意味しているであろう。それが真理を生きるということであろう。それはまた、神にとっての「娘」という意味でもあるのではないのか。神が、イエスが、「娘」と呼ぶことで、その人は神の娘として生きる。

さらに、イエスはヤイロの娘に言う。「タリタ、クーム」と。ギリシア語で「少女よ、起きなさい」と訳されている。この「クーム」というアラム語は、ヘブライ語と同じで「起きよ」という意味であるが、復活を意味する言葉としては「立ち上がる」ことを表す。この少女は「死んだ」と言われていたのだから、文字通り死から復活して「立ち上がれ」とイエスはおっしゃったのである。しかし、イエスは少女は「眠っている」とおっしゃっていた。これは「横になっている」という言葉であるから、イエスは「横たわっている」少女に「起きよ」、「立ち上がれ」とおっしゃった。二重の再生を表す言葉としてクームが使われている。それゆえに、少女は「すぐに立ち上がって、歩き続けていた」と言われている。「歩き続けていた」と付加されているところが面白い。「歩く」ということが生きることを表しているからである。ただ立ち上がっただけではなく、歩くことが生きることである。長血の女も「行け、平和へと」とイエスに命じられている。この言葉もまた、神との平和のうちへと行きなさいという意味であろう。行くこと、歩くことが、我々が生きるということであり、生きる方向性を表している。

「平和へと行く」ということは、安心して行くというよりも、神との関係が回復された状態に向かって行くという意味である。ここで使われている「平和」というギリシア語が指しているのはヘブライ語のシャロームだからである。シャロームは完全性を表す言葉であり、その完全性は神との関係が健全であることを表す。神との平和のうちへと進んでいくことを表している。そうであれば、長血の女が行く方向と、少女が立ち上がって、歩くこととは、神の平和の中での生を意味している。完全なる世界の中で、真理を生きること、隠れなく生きることを意味している。長血の女も少女も、不完全さである罪の中に囚われていた。そこから解放され、そこから再び立ち上がらされて、歩き始める、シャロームへと。それが真理を生きることである。彼らの経験、彼らの信仰、彼らの行動、彼らの存在、それらすべてが神が起こし給うたそのままに真理として働いている。これを生きることが真理を生きることである。

我々は、時に、「もう手遅れだ」と思うことがある。「あなたの娘は死んだ。先生を煩わせることはない」と言う会堂長の家の者たちも同じ。「もう手遅れ。」、「こうなってしまっては、どうにもならない」と思ってしまう。ところが、真理はそこから始まる。人間が何とかできると思っている間は始まらない。何ともならないというところに来て、ようやく神の働きを受け入れる。真理が働き出す。娘と家族がここに至っているがゆえに、イエスは「恐るな。ただ信ぜよ」とおっしゃる。そうである。ただ信じること、それこそが神の真理を受け入れること、真理を生きること。人間が自分たちで何かを実行できると思っている間は、神の働きを受け入れる状態にはない。むしろ、神の働きを拒否する状態にある。人間が何もできない状態に至って、ようやく神の働きに信頼する「信仰」に至るのである。「ただ信ぜよ」とはそういう言葉である。「ただ」とは「唯一」という意味である。「唯一信じることのみが残っている」という意味である。

「奴隷的意志について」を書いたマルティン・ルターがその本の中で語っているように、我々人間はこの世の事柄については自由意志を働かせることができる。しかし、神の事柄については、自由意志はない。むしろ、罪に支配された奴隷的意志があるだけである。神との関係においては、我々は常に罪の奴隷となって生きている。それは、原罪のままに生きていることである。原罪のままとは、神から隠れて生きていることであり、世間から隠れて生きることに現れる。長血の女は、世間から隠れて生きていた。ところが、何とかして癒されたいとの願いを彼女は持った。そして、隠れて、群衆の中に紛れ、イエスの衣服に触れたのである。しかし、隠れたままでは、真理を生きることにはならない。神との関係を義しく生きることにはならない。それゆえに、イエスは女を探した。彼女が隠れたままに生きることがないようにと探した。このイエスの思いに触れて、彼女は立ち上がった。真理の中へと立ち上がった。少女も真理の中へと立ち上がり、歩き始めた。これが今日イエスが行ったことである。

イエスの宣言が長血の女を義しい位置へと置いた。イエスの宣言が少女を立たせ、歩かせた。ここで、イエスは復活する生を彼らに与えている。我々キリスト者は、この生を与えられた者。あなたも同じように罪の中から救われた。神のものとして救われた。それがキリスト者である。そこに立たしめるのはイエスのみ。十字架を越えて、復活させられたイエスのみ。このお方の宣言の中で、我々は救われている。「立ち上がれ」とおっしゃるイエスに従って、立ち上がって、歩いて行こう、神に向かって。

祈ります。

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