「未来への現在」

2021年8月1日(平和主日)
ヨハネによる福音書15章9節-12節

「終わりの日々において、それは生じるであろう。ヤーウェの家の山は堅く生じるであろう、山々の頭として」と預言者ミカは預言している。この預言は将来のこと。しかも、「終わりの日々」と言われているのだから、終末である。ミカが預言した「平和」は終わりの日々において生じる「平和」である。彼が預言した日々においては、一つも生じてはいない。ミカが預言した時代には争いがまん延していた。ミカの時代に平和は生じなかった。それなのに、彼は「終わりの日々」における平和を預言した。自分が見ることができない日々のことを預言した。どうしてなのか。預言とは、現在をどう生きるかを民に問う神ヤーウェの意志だからである。自分が見ることができないとしても、神が語り給うのだから、預言するのである。

神は、ミカだけを見ているわけではない。すべての民を見ている。すべての民に、殊にイスラエルの民に今をどう生きるべきかを語る。現在は未来へとつながっているからである。今を相応しく生きなければ、将来も相応しく生きることはないであろう。それゆえに、神は今を相応しく生きて欲しいのだ。この神の意志がミカに語られている。ミカは、このように預言するしかない。現在が如何に争いの中にあろうとも、自分自身が平和を見ることができなくとも、ミカは語るしかない。いや、語らざるを得ない。神の意志を聞いた者は語らざるを得ない。それがミカの預言である。

この「未来への現在」は、今日の福音書のイエスの言葉にも現れている。「もし、わたしの戒めをあなたがたが守っているなら、あなたがたは留まっているであろう、わたしの愛のうちに」と10節で語られている。「守っている」現在から「留まっているであろう」未来が語られている。さらに続けてこうイエスは言う。「ちょうど、わたしがわたしの父の戒めを守ったように、そしてわたしが留まっているように、彼の愛のうちに」と。イエスの場合は、「守った」という過去が「留まっている」という現在に現れている。つまり、イエスの過去における現在が、イエスの過去における未来を規定しているのである。弟子たちの現在が、弟子たちの将来を規定しているのは、イエスの過去と現在のつながりによると言うのである。ということは、イエスの過去は過去ではないということである。イエスの過去も現在も未来もすべてがイエスの時なのである。なぜなら、イエスは神だからである。

ヨハネ福音書の劈頭で語られている通り、イエスは神のロゴスである。神と共にあるロゴスによって、すべては創造されたと言われている。そして、今もイエスは創造の言葉ロゴスを語っている。十字架と復活、昇天を通って、再び降ってきた者として語っている。イエスのうちには過去、現在、未来のすべてが内包されている。このお方が語る過去は、弟子たちの現在を規定する。このお方の現在は、弟子たちの未来を規定する。このようにして、イエスはロゴスとして弟子たちに語りかけ、弟子たちの現在を未来へと開くのである。

イエスの戒めを守っているということは、イエスの愛の中に留まっていることなのだとイエスは言う。しかし、我々はイエスの戒めである「互いを愛する」ことを守っているであろうか。守ることができない自分を知っているのではないのか。それでは、我々の未来は、イエスの愛の中に留まる未来にはならないと思える。それは絶望的な未来である。絶望的未来が来たるならば、来て欲しくないと思ってしまう。いっそのこと、戒めを守ることができない現在を消してしまいたいと思ってしまう。わたしにとって未来は希望ではなく、絶望だとしたら、未来に至らないままに消えても同じだと思ってしまう。そのような自分自身をどうにもしようがない。自分で自分を変えることができるならば、とっくの昔に変わっていたであろう。しかし、変わることなく、変えることもできず、未来は閉ざされたままである。このような現在ならば無くとも良い。もっと希望のある現在を生きたい。少しずつでも平和の未来に近づいていけると思える現在を生きたい。このままでは、どうにもならないと思ってしまう。それが我々の現実である。

他者のことは批判しながら、自分は自分の間違いを認めることができない。他者の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の丸太は見えない。批判しても何も変わらない。変わりようがない。この現実を知りながら、ミカはどうして預言したのか。変わり得ない民に、変わり得ない自分に、どうして預言したのか。ミカは、変わり得ない罪人であるという現実に向かって語った。神の意志を語った。それは「終わりの日々において」生じると語った。他者が変わり得ず、自分も変わり得ないとしても、神の意志が聞こえてきた。それゆえに、ミカは語った。「ヤーウェの家の山は堅く生じるであろう、山々の頭として」と。ここには人間のことは語られていない。ただ、神ヤーウェの家の山が語られている。その山が堅く生じるであろうと、語られている。人間がどうあろうとも、神の山が堅く生じる、山々の頭としてと、ミカは聞いたのだ。そのときには、すべての民がその山へと向かうと聞いた。終わりの日々だからである。終わりの日々にならなければ、それは生じない。ただ、神ヤーウェのみが神であることが明らかになる終わりの日々においてしか生じないと、ミカは聞いたのだ。もはや、ここには人間の力などない。いや、最初から人間には力はなかった。堕罪のときにも、蛇に唆されてしまったのだから。神の意志に従うことなどできなかった。それが人間である。ミカがそう語っているとすれば、イエスの戒めを守ることができないことをどう理解すれば良いのか。

我々が守ることができない戒めなど、最初から語らなければ良いのにとも思ってしまうであろう。しかし、神の意志である戒めは語られなければならない。誰もが知らなかったと言えないように、語られなければならない。誰も聞いていないと言えないように、語られなければならない。終わりの日々において、語っておいたではないかと神ヤーウェがおっしゃって、「そのとおりでした」と我々が応答するために、語られなければならない。誰も言い逃れできないように語られなければならない。

では、イエスが言う「あなたがたが守っているならば」という現在は無効になるのであろうか。誰も守っていないのであれば、イエスの愛の中に「留まっているであろう」未来は来たらないのだろうか。いや、愛の中に留まるということは、語られている言葉、与えられた戒めの中に留まることである。我々が守っているということは、完全に守り切れているという意味ではないであろう。むしろ、守ろうとして苦闘していることを表しているのではないのか。我々は苦闘すべきなのだ。守っていると自負するならば、終わりの日々に自分を誇るであろう。しかし、終わりの日々にイエスの愛の中に留まるとすれば、守り切れなかったわたしを包んでくださるお方のうちに留まることであろう。苦闘している者は、守り切れなかった自分を隠すことができない。隠すことなく、それでもなおわたしを愛してくださるお方の許に留まる。それが我々の未来として保証されている。この愚かな罪人が、未来を保証されている。イエスの愛の中に留まることができると保証されている。それが、イエスが今日弟子たちに語っておられる未来である。そして、「未来への現在」をどう生きるかを語ってくださった。

我々は互いを愛することができない自分と苦闘しながら生きて行くのだ。それゆえに、週毎の礼拝において、罪を告白し、赦しを受ける必要がある。我々が絶望してしまうことのないようにと、神はこの礼拝を設定してくださった。イエスは、ご自身の体と血の聖餐を設定してくださった。これらすべてが神の愛の賜物、イエスの愛の賜物である。愚かな罪人を憐れみ給う神の愛が、今日も我々に与えられる。戒めを守ることができなかったことを悔い改めつつ、イエスの愛の中に留まろう。あなたを愛してくだるお方のうちに留まろう。イエスもまた、あなたのうちに留まってくださる。尊い体と血を通して、留まってくださる。

祈ります。

 

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