「神に委ねて」

2021年8月8日(聖霊降臨後第11主日)
マルコによる福音書6章6節b-13節

「あなたがたの足たちの裏の塵を振り落とせ」とイエスは言う。これは完全なる関係切断を意味している。ほこりではなく、土の塵が足の裏についているであろうから、それさえも「振り落とせ」とイエスは言う。これは未練を残すことなく、完全に関係を断てということである。塵ほどの未練も残すなという意味である。イエスがこのような断絶を命じるということに違和感を感じるかも知れない。しかし、イエスは弟子たちがすべてを神に委ねることを勧めている。それは6節aでイエスご自身も「彼らの不信仰に驚いた」と述べられているからである。この箇所は、本日の日課からは省かれているが、福音書の話の流れ、論理の流れはここからつながっている。その前には「敬われない預言者は存在しない、彼の生まれ故郷以外では」とイエスは述べておられる。イエスご自身も生まれ故郷で人々の不信仰によって、ご自身の癒やしの働きができなかったことが述べられている。その結果、他の村を回り、弟子たちにも同じような不信仰の民にどう関わるべきかを教えるために、宣教に派遣した。それはすべてを「神に委ねて」生きるということであった。

「神に委ねて」生きるとは、すべてを神が司っていると信じることである。自分の力の無さに落胆する必要は無い。受け入れる人は受け入れ、受け入れない人は受け入れない。この現実の中で、自分の力によって何事かを為そうと思わないこと。自分の力では何もできないと神に委ねること。それが、イエスが弟子たちに経験して欲しいことであった。それゆえに、「あなたがたの足たちの裏の塵」を「振り落とす」ことを命じた。「振り落とす」という言葉は、「払い落とす」と訳されているが、原文は「振り落とす」という言葉である。この言葉が示しているのは、塵に触れることなく、履き物を振って、落とすことである。落ちるべきものが落ちるようにすることである。それを弟子たちが選ぶことはできない。塵はほこりのようであるが、原意は塵なのだから、人間が創造された地の塵を指してもいるであろう。この塵を用いて、神が人間を創造したのだから、受け入れない者たちの再創造を神に委ねるということでもある。

我々人間は、人間を造り替えることはできない。神によって造られたように、一人ひとりは生きている。もちろん、堕罪によって、神の意志を拒否するのが人間である。その中にあっても、受け入れる者がいるとイエスは見ておられる。故郷での多くの人の不信仰にも関わらず、少数の信仰者が癒されたのである。信仰者は少数である。信じる者は少ない。それでも起こされる、神によって。従って、不信仰者を信仰者に変えようと思い上がってはならない。不信仰は不信仰のまま、神による再創造に委ねるしかない。それが、弟子たちが学ぶべきことである。

弟子たちは、一つ家に迎え入れられたなら、そこに留まるようにとも勧められている。これもまた、神の配在に従うことである。自分で良い家を選ぶのではない。自分に都合の良い家を選ぶならば、神の配在を拒否することになるからである。弟子たちは、彼らを受け入れた家に留まらねばならない。他の家から誘いがあっても、行ってはならない。出て行くのは、神の必然によって出て行くときに出て行くだけである。そのときも、弟子たちが選ぶことはできない。彼らが完全に神の支配に服することをイエスは願って、弟子たちを派遣した。この指示に従って、彼らは「多くの悪霊を追い出した」、「多くの病を負う人たちに油を塗って、癒した」と言われている。イエスの指示に従うことで、彼らは与えられた権威によって働くことができた。彼らの力ではなく、与えられた権威が働いた。それゆえに、受け入れない者たちとの関わりをも、彼ら自身の力によらず、神に委ねて、出かけるようにとイエスは命じたのだ。

我々人間は、自分の力で何とかしようと思ってしまう。自分の力がなければ、何もできないと思ってしまう。しかし、人間には力はない。誰かを造り替えることはできない。神が創造した世界は、神だけが造り替えることができる。この認識の下に、我々は生きて行くべきなのだ。ところが、この世においては、我々は他者を造り替えようとし、他者を自分が求める姿にしようとする。これが罪の姿であることを知らずに、求めてしまう。それでは、神の働きを邪魔することはできても、神の働きに従うことはできない。もちろん、邪魔をするとしても、神の意志だけが最終的に実現するのだが。

神の意志は、我々人間の拒否にも関わらず、実現する。イエスの十字架と復活が証言している通りである。人間が拒否してもなお、神は人間の拒否と悪とを、神の善のために逆転し給う。イエスの十字架と復活を通して、すべては神が支配し、ご自身の意志を実現しておられることを我々キリスト者は知っている。この信仰に基づいて、我々は神に用いていただく従順を生きなければならない。「神に委ねて」生きるということは、神に従順に従うこと。「神に委ねて」生きる者は、神に用いていただける。「神に委ねて」生きる者は落胆しない。ただ、受け入れない者との関わりを大胆に断つ。自分のやり方次第で、彼らが受け入れるであろうなどと思い上がってはならない。このような思いによって、相手に取り入る生き方を我々は選んでしまう。相手に取り入ることで、相手を支配できると思い込んでしまう。こうして、我々は受け入れられることを作り出そうとする傲慢に陥るのである。思い上がり、傲慢、自負。すべて同じ根を持つ信仰を蝕む罪である。そこから離れることをイエスは弟子たちに命じた。彼らがあくまで神に従順であるようにと命じた。それゆえに、持っていくものも制限した。大事なものは神への信頼だけだからである。

旧約の日課のアモスも命じられたのは「あなたは行って、預言せよ、わが民イスラエルに」ということだけであった。アモスを批判するアマツヤは、アモスが預言を仕事としていると思い、別のところでお金をもらって預言せよと言う。しかし、アモスは「預言者ではない、わたしは」と応える。これは職業預言者ではないという意味である。アモスの職業は家畜の飼育といちじく桑の栽培である。職業預言者ではないアモスが預言しているのは、神が派遣したから。神が語るべき言葉を与えたから。彼は神の言葉を語るだけ。相手が王であろうとも、まっすぐに語るだけ。神の言葉を曲げずに語るだけ。それが真実に預言者である。アモスは自らが何かを得るために預言しているわけではない。ただ、神の言葉を聞いたがゆえに、預言している。神が預言せよとおっしゃったがゆえに預言している。それだけである。アマツヤは、この世的預言者集団の一人だと勘違いしているが、それはアマツヤ自身の生き方から推察した結果である。アマツヤはアモスがこの世的に働いているのではないことを理解できない。それゆえに、脅せば、引き下がると思ってもいる。これがこの世の支配に、この世の権威におもねっている者の考え方。この世に支配されている者の思考である。ここから抜け出すことは、アマツヤには困難である。神が彼の心を、理性を開かなければ困難である。このアモスとアマツヤに代表される立場は、福音書の弟子たちと受け入れない者との立場と同じである。受け入れない者には、弟子たちの派遣が神によって生じていることが理解できない。それゆえに、この世の価値によって、彼らを拒否する。そして、神を拒否する。この在り方から離れるには、神が働いてくださるしか方法はない。これを受け入れることが「足の裏の塵を振り落とす」こと、神に委ねて前進することなのである。使徒パウロがいう「後ろのものを忘れる」ことであり、全身を前方に伸ばすことなのである。「なすべきことはただ一つ」だからである。

ロトの妻のように、振り返ってはならない。後ろに未練を抱えてはならない。前に向かって、ただひたすら進み行くだけ。我々が目指すべきところは神の国。神がすべてにおいてすべてとなり給う神の国に向かって進み行く者は、すべてを神に委ねて前進する。我々もまた、足の裏の塵を振り落として、進んで行こう。あなたが目指すべきところに向かって。唯一なる神を仰ぎ見て。

祈ります。

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