「良きカイロス」

2021年8月15日(聖臨降臨後第21主日)
マルコによる福音書6章30節~44節

「食べるのに良いカイロスがなかった」と言われている。「食べる暇が無かった」と訳されているが、原文では「良いカイロスがなかった」である。この言葉は神の介入の一瞬時であるカイロスに「良い」という接頭辞がついたことばである。つまり、良い神の時が介入しなかったということである。その良いカイロスは、最後にこう言われている。「すべての者たちが食べた。そして、彼らは満腹した」と。「すべての者たち」には弟子たちも含まれている。「食べるのに良いカイロスが無かった」弟子たちも、群衆も満腹した、良いカイロスに恵まれて。これが、今日イエスが示し給うた神の出来事である。

イエスは、弟子たちが「良いカイロス」に出会うために、彼らだけで出て行き、物事から身を離すようにと勧めた。一旦、彼らは身を離した、群衆から。体を休めるために、人のいない荒野の場所に向かった。彼らがそこに向かうのを知った群衆は彼らより先に、その場所に着いてしまった。その姿を飼い主のいない羊たちのようだと憐れんだイエスは、彼らに神の言葉を語った。夕暮れになって、群衆の解散を求める弟子たちに、イエスは言う。「あなたがたが与えなさい、彼らに、食べることを」と。弟子たちは、おそらく自分たちが食べることしか考えていなかった。自分たちが満腹し、体を休めることしか考えていなかった。そんな弟子たちに向かって、イエスは「食べることを与えよ」と言う。自分のことは置いて、他者のために奉仕せよとおっしゃっているようである。ところが、それこそが「良きカイロス」に与ることだったのである。

我々人間は、他者に与えているようでいて、自分も共に与っているものである。自分だけが損をしていると思っているが、実は自分も共に恵まれている。自分だけの良い状態を求めることが、自分をより良く生きることだと思っているが、それは自分を破壊することである。なぜなら、我々は与えることで受けるように造られているからである。しかも、我々が与えるものは、すでに神から与えられているものだということを忘れている。我々に与えられているものは独占するために与えられているのではない。他者と共に生きるために与えられている。他者と共に神の恵みに感謝するために与えられている。これを忘れるとき、どんなにたくさん食べたとしても真実に満腹することはない。しかし、如何に少なくとも、共に神を見上げ、共に神に感謝を献げるとき、我々は満腹する。これは、いつも一緒にいる仲間の問題では無く、行きずりの群衆と共に生きるという問題なのである。

先に見た、十二人の宣教派遣の際に、見知らぬ旅人を受け入れた家は受け入れることによって、弟子たちと共に神の言葉を聞いた。受け入れない家は、神の言葉を拒否した。受け入れるということは、他者によって与えられることを受け入れることである。神の言葉を真実に受け入れ、耳を傾けようとすることは、それを伝えようとする者をも受け入れる。受け入れる者は、伝える者と共に神を見上げる。このとき、与える者と受け入れる者は一つとされる。この信仰的在り方が、今日の五千人の給食にも現れている。

一方、弟子たちの最初の返答に現れているのが不信仰な在り方、この世の在り方である。そこでは、自分の持っているものにしか目が向いていない。自分が何とかできるものにしか目が向いていない。それでは何ともならないという現実しか見えていない。現実からは理想は生まれない。現実を越えた世界を知らなければ理想は生まれない。現実を越えて世界を見る視点がなければ理想に生きることはできない。それが、イエスが神を讃美する視点である。イエスは五つのパンと二匹の魚という現実の中で、神を讃美する。神がすべてを御手に治めておられることを讃美する。この視点が、この信仰が現実を越える理想を実現する。それは神が実現し給う世界である。

我々人間は、自分の目の前の現実を越えることはできない。我々の現実は我々の限界しか示していない。この限界を定め給うたのは神である。我々を守るために、定め給うた神による限界。この限界を神が定め給うたと信じる者は、神が現実を越えてくださると信じる。信仰の目には、神の力は我々の現実を越えておられるということは明らかである。この信仰の目をもって、この世の現実を見るとき、神の現実が現れてくる。

我々は常に、自分を守るもの。他者は二の次。まず、自分が満腹することを求める。まず、自分が安心したい。まず、自分のために集める。まず、自分が優先される。そこには神の世界は無い。人間の世界があるだけ。人間の視点があるだけ。人間の限界があるだけ。これを越えてくださる神がおられるとは信じられない。こうして、不信仰はまん延していく。まず、与えられていることを、与え給う神を讃美することなく、自分の生活を確保する。これが不信仰な在り方であることを知ろうとはしない。自らの不信仰を知る者は、それを越えたいと願い、祈り、神に向かう。神に向かう者は、先に与えられているものに目が開かれていく。我々は何も持たず、この世に生み出された。裸で生み出された。それにも関わらず、神がすべてのものを備えてくださっていた。この地上も、地の食べ物も、生きるべき世界も、神がまず備えてくださっていた。そのあとで、我々人間は創造されたのだ。何も持たずとも、すべてが備えられた世界がある。この世界を見ている者がキリスト者である。

目の前のことだけしか見えなかった弟子たちの目を天に向けさせたのは、イエスの祈り。イエスの讃美。まず、天に目を向けるのだ。まず、神を讃美するのだ。まず、神が与えてくださっていることに感謝するのだ。そこから、地に目を転ずれば、なすべきことが見えてくる。イエスが言う「あなたがたが与えなさい、彼らに、食べることを」という世界が見えてくる。我々は与えるだけ。与えられているものがあるのだから、与えるだけ。この世界に入ることによって、我々は他者だけではなく、自らも満たされていく。神の恵みに満たされていく。弟子たちを含めて、五千人が食べて満腹する世界が開かれていく。自分だけの神ではない。世界のための神が生きておられる。世界を創造した神が生きておられる。イエスは、この世界を弟子たちに見せてくださった。彼らがイエスを見捨てて逃げたとしても、この世界は変わりなくあなたがたを包んでいると見せてくださった。弟子たちが罪深くとも、神の憐れみは包んでいると見せてくださった。神の憐れみとは、人間よりも先にある恵みだと見せてくださった。

飼う者のいない羊を憐れんでおられる神の眼差しをもって、イエスは群衆を見た。イエスの魂が、群衆の哀れさを体で感じるほどに共感し、同化した。イエスが一つとなった群衆を神の憐れみが包んでいる。この憐れみの心をイエスは現してくださった。弟子たちのために、群衆のために、彼らが一つとなって、満たされるために。行きずりであろうとも、一瞬を共に生きることができると、イエスは一つにしてくださった。これが、「良きカイロス」なのである。神が設定してくださった「良きカイロス」が弟子たちだけではなく、群衆をも包んで、一瞬時として介入してくださった。我々は現実を越える理想に生きることができる。現実に縛られる必要は無い。まず、神を讃美し、神に感謝し、神に信頼するならば、すべては神の意志に従って満たされていく。現実的に不可能と思えることさえも、可能とされていく。死んでもなお生きる十字架。これが不可能を可能とする神の現実を指し示している。

我々は今日もこの神の現実の中に生かされている。あなたの目の前に見えている世界を越えて、神は生きておられる。生きて働いておられる。この世界への窓は、あの十字架。この世界における満たしは、イエスの体と血から与えられる。キリストがあなたのうちに形作られるためにと、与えられる聖餐を感謝していただこう。あなたは、神の憐れみの中に生かされているのだ。あなたのそばにいる存在と共に生かされているのだ。あなたが与える者として生きるために与えられるキリストの体と血を感謝していただこう。

祈ります。

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