「存在」

2021年8月22日(聖霊降臨後第13主日)
マルコによる福音書6章45節-52節

「勇気を出せ。わたしは存在している。恐れるな。」とイエスは弟子たちに語りかける。存在していない幽霊、幻影が「存在している」と弟子たちが叫んだことに対して、いや「わたしは存在している」イエスなのだと語ったのである。それは「わたしである」と訳しても良いであろうが、イエスは存在していない幻影という存在ではないと述べているのである。つまり、真実に存在していると。しかも、海の上で、地の上にいるように「存在している」と述べている。イエスはここで「存在している」ことの真実性を弟子たちに伝えようとしておられる。「存在」とは何かを。地の上であろうと海の上であろうと存在することの根源には何があるのかをイエスは示そうとしておられる。それは「語りかける」というイエスの行為に現れているものである。

「勇気を出せ。」と「恐れるな。」の間に「わたしは存在している」という言葉が挟まれている。中心にあるのが存在である。勇気を出すことができず、恐れてしまうのは、存在の不安があるからだということである。弟子たちは、自分たちの思うように動かすことができない状況の中で不安を抱えている。それゆえに、存在しない幻影が見えたように思い込む。この幻影ファンタスマは、幽霊と訳されているが、「見せかけのもの」が本来の意味である。現れという言葉ファイノーの名詞形であるが、「見えているもの」のみを指し、「見せかけ」の意味を持っている。つまり、内実のない現れのみの見せかけがファンタスマ幻影である。

このファンタスマが見えるということは、不安の反映であり、自己の不安が投影されたものが見せかけのファンタスマなのである。弟子たちは、自分たちの力ではどうにもならない逆風にさいなまれて、不安定な海の上に取り残されている。自らの存在の地盤がない弟子たち。その不安が「ファンタスマが存在している」という叫びとなっている。存在していないものが見えるということを自覚している時点で、彼らは自分たちの不安定さを自覚しているのである。そのような彼らにイエスは語りかけることによって、彼らの存在を確かなものにした。

イエスは、海の上を歩いて、弟子たちのところへ向かったが、「彼らを通り過ぎることを意志した」と記されている。彼らの存在が不安で消えかかっていたからであろうか。あるいは、あえて彼らがイエスを呼ぶようにするためであろうか。いや、彼らの存在の状況が明らかになるためであろう。彼らが存在の不安に陥っていることを、彼ら自身が自覚するためであろう。その上で、存在とは何かを彼らに伝えるために語りかけるのである。

神が我々人間を創造したとき、神はこう言われた。「人間を作ろう、我々のイメージのうちに、我々の似姿のように」と創世記1章26節には語られている。神はご自身を「我々」と複数形で表している。神のイメージとは「我々」として語り合うイメージである。語り合う存在としての人間の姿がここに述べられている。さらに、語り合うだけではなく、神の語り掛けを聞く存在としての姿が創世記3章には記されている。語り掛けを聞くということが、蛇の語り掛けも聞くことになり、罪を犯すことにもなった。神と語り合い、神の意志を生きるべく作られたのが人間ではあるが、悪魔の語り掛けも聞いてしまうのである。この悪魔の語り掛けが「ファンタスマが存在している」と叫ぶ弟子たちの心に響いている。悪魔は、人間の不安に忍び込んでくる。イエスはその弟子たちの心を引き戻すために、彼らの前を通り過ぎる。彼らが叫ばずにはおられないようにするために。彼らに語り掛ける切っ掛けを作るために。

彼らは、自分たちが不安の中にいることを自覚はしていない。しかし、叫ぶことによって、その不安を幻影ファンタスマとして認識する。イエスは、その彼らに語り掛けることによって、「ファンタスマは存在していない」と説得するのではない。「存在している」イエスご自身を見せることによって、「存在していないもの」から引き離すのである。不安は存在していない不安であることをイエスは弟子たちに示した。イエスが舟に乗り込めば、不安は消え、風は鎮まる。しかし、「存在」に対する不安の問題は残っている。悪しきものは繰り返し我々を襲い、不安に引き摺り込んでしまう。不安の中に置き去りにして、見せかけのもの、表層的なものだけが確かなのだと思い込ませようとする。そのような我々に対して、根源的なお方は語り掛けておられる。聖書の言葉を通して、礼拝を通して、語り掛けておられる。我々は、神の語り掛けに耳を傾けることによって、本来的なところへと引き戻されて行くのである。

神の語り掛けは見えない。言葉は見えない。見えるものの方が確かなように思える。幻影であるファンタスマも確かなように思える。それは、我々が自らの存在を幻影によって確かめようとするからである。見えるものによって確かめようとする。見せかけによって確かに思えてくる。そのとき、幻影であるファンタスマが我々の存在の根拠になっている。これが罪の状態なのである。自分の感覚で確かめることができるもの。自分が確認できるものだけが確かだという思い込み。そこには、人間中心主義が存在するだけである。ルネ・デカルトはそのような人間の感覚を疑問視して、根源的な自己である「考えているわたし」から始め直した。

しかし、自分の力ではどうにもならないというところに置かれてもなお、この人間中心主義はなくならない。どうにもならないようにした人を憎むということにおいて、我々はやはり人間中心に考えている。人間に目を向けるとき、見せかけに目を向けるとき、我々は不安定になっていく。そのような弟子たちのところへ、地の上を歩くように、海の上を歩いて近づいたイエス。イエスは、弟子たちの不安を見ておられる。不安定な、土台のない彼らを見ておられる。イエスが彼らに語り掛けることによって、彼らはイエスの語る言葉の上に立たされた。見えない言葉の上に立たされた。これが信仰の神秘である。

イエスが語った言葉は「勇気を出せ」、「わたしは存在している」、「恐るな」という三つの言葉である。「勇気を出せ」という言葉も「恐るな」という言葉も、神に信頼せよという意味である。この言葉は、モーセの死後、イスラエルの民をカナンの地に導いていったヨシュアに神ヤーウェが語る言葉と同じことである。モーセに代わって、ヨシュアを立てた神ヤーウェは言う。「強く、雄々しくあれ」と。この原文は「強くあれ。そして、極めて勇敢であれ。」である。そこで使われているハーザクとアーマツというヘブライ語は、腕力や体力が強大であるという意味よりも、「堅く立つ」ことを意味している。つまり、神への信仰に堅く立つようにと神はヨシュアに命じたのである。同じように、イエスも弟子たちに言うのだ。「勇気を出せ。恐るな。」と。それは「堅く神に信頼して立て」という意味である。その中心に「わたしは存在している」という存在の確かさがあるのだと述べているのである。

我々は常に不安の中に投げ出される。悪魔によって不安を増幅され、不安から疑心暗鬼へと陥る。ファンタスマは至るところで我々を惑わす。それは我々が罪人であるがゆえに陥るものである。この罪人の必然をご存知で、イエスは語り掛けてくださる。「勇気を出せ。わたしは存在している。恐るな。」と。この言葉がわたしという存在の根拠を見せてくださる。我々自身では越えることができない不安を乗り越えさせてくださる。それが今日、イエスが我々と弟子たちに与えてくださった恵みである。

この恵みはイエスご自身の語り掛け。語り掛けるイエスご自身が我々のうちに入ってくださる。我々のうちで生きて働いてくださる。「わたしは存在している」というみことばが、わたしの中心にある限り、わたしの不安は打ち消され、神に堅く信頼する信仰が新たにされていく。あなたのうちに、イエスは生きておられる。「わたしは存在している」と生きておられる。生きて働いておられるイエスと共に歩いて行こう。如何なるときでも、如何なる場所でも、神の確かな語り掛けをあなたは聞くことができる。神の言葉を聞いているあなたは、確かな存在なのである。

祈ります。

 

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