「心のあるべき場所」

2021年8月29日(聖霊降臨後第14主日)
マルコによる福音書7章1節-15節

「この民は、唇たちによって、わたしを敬っている。しかし、彼らの心のあるべき場所ははるかに遠く離れている、わたしから」とイザヤは預言した。このイザヤ書29章13節の言葉をイエスは引用して、ファリサイ派のような偽善者たちについて語る。「唇たちによって」「敬う」とは、心のない唇だけが動くありさまを述べている。なぜなら、彼らの心があるべき場所であるカルディアは、神ヤーウェからは遙かに遠く離れているのだからと言う。彼らの心のあるべき場所はどうなってしまったのか。その場所は失われて、宿るべき心も失われているということなのか。彼らの心は別の場所に移動してしまったのだろうか。彼らの心カルディアは何を収めているのだろうか。もちろん、自分の心である。しかし、彼らは自分の心をまっすぐに見ていない。彼らが見ているのは、心がなくとも、行うことができる外面的な事柄だけ。外面的な事柄は、内面がなくとも同じ形で行うことが可能である。そのように繰り返しているが、形から学ぶという姿勢がない状態が「心のあるべき場所が遠く離れている」状態なのである。

人間は、経験もなく、知識もないことに関しては、人の真似から始めるものである。真似は、もちろん形を真似ることである。真似ることで、その形に込められた思想、精神、信仰などを学び取るとき、真似た形が自らのものとなっていく。形に込められた思想、精神、信仰が自らのものとなったとき、その根源的な土台の上に、自分自身の形を作り出すことができるようになる。この状態にあるとき、我々は習熟したと言う。これが学ぶということである。しかし、学ぶ姿勢がない状態で真似ても、そのときだけのことであり、同じことを同じようにただ繰り返すだけで、自らのものとはならない。何度聞いても、何度見ても、自分で考えることができず、「どうしたら良いのか」と繰り返し聞く。そして、身につくことはない。

形を覚えたとしても、精神を理解していない場合には、その形に込められた思想、精神、信仰を説明することができない。そして、同じことを繰り返しておけば良いのだと人に教える。「ここではこうするものなのだ」と教える。これほどふざけた生き方はない。これほど偽善的な生き方はない。イエスは、この生き方を批判しておられる。このような人間の心はどこにあるだろうか。神からはるかに遠く離れたところにある。彼らが大事にしているのは、慣習である。昨日もこうやったから、今日もこうやろう。昨年もこうだったから、今年もこうで良い。慣習通りにやっているなら間違いない。批判されることもない。しかし、心はない。思想もない。精神もない。信仰もない。これがファリサイ派、律法学者の姿であるとイエスは批判しておられる。ところが、これは人間の罪の姿である。

現代でも、誰もがこのようなところで生きている。何も考えず、昨年同様にしておけば良いと生きている。昨年と同じことをしておけば安心する。考えることから遠く離れて生きている。この姿は、ファリサイ派や律法学者と同じ、慣習に縛られた姿。「長老たちの引き渡したものに従って歩く」姿。思考しない無思考性の生き方。この生き方が生み出したもの、それがナチスドイツのユダヤ人虐殺である。それを証明したのが、アイヒマン裁判であった。この裁判を傍聴して、報告書にまとめたハンナ・アーレントは、アイヒマンが虐殺を実行した背景にある「考えないこと」の罪を見た。そして、悪の陳腐さを見た。まさに、イエスが言う偽善者の姿である。

偽善者は、「唇で敬い、心ははるか遠くに離れている」神ヤーウェご自身から。神が命じたことを守るために、形を作り、形だけをそのまま引き渡して守る。神の命じた心は見捨てられたまま。形だけを守っていれば誰も文句を言わないだろうと「唇だけ」で行う。以前と同じことをしておけば、非難されることはないと考える。こうして、考えないことによって、考えない生き方が生まれる。この繰り返しの中で、人間は無思考性に陥り、人間であることを止める。パスカルが言ったような「考える葦」としての生き方を止める。デカルトが言ったような「我思う、ゆえに我あり」を見失う。デカルトが言う「思う」は「思考する」こと。思考しないがゆえに、我もない状態に陥る。こうしておけば、生きていける社会を作り出す。守らない人間を非難し、守る意味を見失う。考えないことの罪を赦してしまう。これが、イエスが批判しているファリサイ派たちの生き方。そして、我々人間の罪の姿である。

イエスが日課の最後でおっしゃっている言葉。「人間の外から彼へと入ってくるものは、彼を汚すことが可能なものとして存在しているものは一つもない。むしろ、人間から出てくるものたちが、人間を汚すものとして存在している。」という言葉が語っているのも、このような事態である。イエスが言う「人間から出てくるもの」とは、人間的なものという意味である。「人間の外から彼へと入ってくるもの」とは人間的なものではない。神が彼に与えるものである。それゆえに、人間を汚すことが可能なものとして存在しているものは何一つないのである。人間的な、人間が作り出した「唇で敬う」ような形式こそが、人間を汚す。イエスはこのように語っておられる。

我々が考えるべきは、神が与え給うた意志。この意志に従って、今生かされている自分自身。守られている自分自身。にも関わらず、神の意志を蔑ろにして、唇だけの敬いを語っている偽善者。それが自分なのだと認めること。これが罪の告白である。この罪人の心は、神から遠く離れて、あるべき場所にはない。むしろ、人間のところに置かれて、人間のそばにある。人間の顔色を伺い、人間の社会の中に受け入れられるように生きようとする。こうすることで、非難されることはないにしても、自分自身を見失う。心のあるべき場所を見失う。自らを形作ったお方の意志を見失う。これが我々人間である。これがファリサイ派や律法学者たちだと批判する我々も同じ穴の狢である。なぜなら、彼らと同じように、形だけで生きているからである。心はどこかに置き忘れ、神からはるか遠くに離れている。このような人間がどうやって神の許に戻ることができるのか。これが我々人間の課題なのである。

イザヤはこの言葉に続けて、神の言葉を語っている。「それゆえ、見よ。わたしは加える、この民を驚かせるために、驚くべきことと驚きを。知者たちの知恵を罰する。そして、彼らの理解する者たちの理解を隠す。」と29章14節で語られている。つまり、知恵も理解する力も抑えてしまうと言うのである。そして、彼らは理解することもできず、知恵を持って対向することもできないようになる。つまり、無力になる。これが、イザヤに語られた神の知恵である。福音書には引用されていないが、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章19節に引用している。そこにおいて、パウロは人間の知恵や賢さを無効化してしまう神の愚かについて語っている。それが十字架である。「滅んでいる者たちには、愚かとして存在しているが、救われている我々には、神の可能とする力として存在している」とパウロが言う「十字架の言葉」。この十字架こそが、人間的には愚かであるが、神の知恵、神の可能とする力なのだとパウロは語っている。イエスご自身はこのように語ることはなかったが、イエスはご自分の十字架を見定めながら、イザヤ書を引用しているのだ。

我々人間は愚かであるにも関わらず、知恵ある者のように思い上がって、神の意志を拒否し、唇だけの敬いを繰り返している。そして、人間的なものに汚れた生き方をしている。この事実をまず受け入れ、何が根源的なものであり、我々の心があるべき場所なのかを考える必要があるのだ。それは我々を愛し給うお方の意志のあるところ。あの十字架こそが、我々の心のあるべき場所なのである。あなたの心のあるべき場所である十字架の前にひれ伏し、自らの罪深い人間的な意志を認め、捨て去り、純粋に神の意志に従う信仰のうちに生きて行こう。あなたの心を造り給うたお方は、あなたの心のあるべき場所をご自身の懐とされたのだから。このお方の懐に憩う道をまっすぐに歩いて行こう。

祈ります。

 

 

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