「第一のもの」

2021年9月5日(聖霊降臨後第15主日)
マルコによる福音書7章24節-30節

「まず、こどもたちが満腹にされることを赦せ」とイエスはギリシア女に言う。「なぜなら、美しいこととして存在していないから、こどもたちのパンを取ることは。そして、投げることは、小犬たちに。」と続けて言う。「まず」とは、プロートスというギリシア語であるが、「第一に」、「初めに」、「一番に」という意味である。第一のことを赦せ、手放せと女に言った後で、美しいことを破壊しないためだと言う。美しいこととは、カロスというギリシア語で、神が被造世界を「極めて良し」とおっしゃった言葉で使われている「調和」を意味する形容詞である。こどもたちのパンを取るのは調和を破壊することなのだとイエスは言う。これは、第一のものを第一にするという秩序的順序を守るようにという意味である。

それでは、いつ彼女の順番は回ってくるのだろうか。イスラエルの子らが満腹するまで回ってこないことになる。そうであれば、彼女の娘は救われないであろう。そこで、彼女はテーブルの下の小犬になる。小犬は、第一であるこどもたちが食べている間に、こぼすパン屑を食べるとイエスに言う。第一のものを蔑ろにしなくても、わたしはパン屑を食べることができると言う。この女の返答に対して、イエスは答える。「この言葉のゆえに、行きなさい」と。女は、イエスの言葉を無にすることなく、自分のうちに受け入れ、自分自身を小犬として、イエスの言葉を生きた。これが彼女の信仰である。いや、イエスの言葉が彼女に与えた信仰である。

ギリシア女の信仰は、いつ、どこで生まれたのか。いつどこで彼女は信じたのか。彼女の娘の救いようの無さに直面したときである。それまで、平穏に、娘と共に生きていた彼女が、娘を失うかもしれない状況に立たされたとき、彼女はその意味を問うたであろう。何故に、わたしの娘がこのようなことに。わたしが何か罪を犯したのだろうか。医者でも救えない病が娘を支配していた。絶望の淵に立たされて、彼女は自分自身の生き方を振り返ったであろう。自分のいのちを与えても良いと思ったであろう。そのような彼女の魂が、その根源的創造者に出会う。知られたくないと隠れていたイエスのことを聞きつける。どうして、彼女は知ったのか分からない。しかし、彼女はイエスの許へと導かれてきた。彼女に聞こえてきたイエスのうわさが彼女を導いた。彼女の魂が聞いたのであろう、彼女の救い主の声を。

彼女は「ダイモニオンを娘から追い出して欲しい」とイエスに願った。その願いを簡単にはねつけたイエスの言葉。「第一に、こどもたちが満腹にされることを赦せ」という言葉が女を突き放す。さらに、「こどもたちのパンを取ることは美しくない」とたたみかけられる。女は、この言葉に従った。こどもたちが満腹にされることを奪おうとは思わない。神の秩序である美を破壊しようとも思わない。しかし、彼女の魂の根底において、その美を作り出したお方を感じた。それゆえに、こどもではなくともその世界にすべてが入っているはずだと了解した。彼女は、家の中で、こどもの足許にいる小犬を思い起こした。わたしは神の家の小犬である、と彼女は神の家に入った。こうして、彼女は神の世界に置かれた小犬として生きる道を見出した。

小犬の信仰は、必ずこぼれるパン屑があるという信仰である。第一のものに与えられるパンがこぼれ落ちる。それを食べるのがわたし。パン屑でもパンの素材は同じ。欠片にもすべてが入っている。何も違いはない。彼女が受け入れた世界は、全体として一つの家。その家のどこにいても、家の主人である神が支配しておられる。神の支配が行き渡っている。この家で彼女は生きるのだと受け入れた。この受け入れは全体的受容である。自分の都合で、これは受け入れるが、あれは捨てるというようなことはない。すべてを受け入れるがゆえに、自らが小犬になることができる。小犬であろうと、神の恵みをすべて享受することができると信じている。

我々は、小犬になりたくない。馬鹿にされたくない。権利を主張したい。すべてを享受するとは言え、人間として享受したいと思う。そして、小犬になることを拒否する。もちろん、お前は小犬だと言われることは差別である。しかし、女のように、自らが小犬になって家に入るのは、彼女の自己受容である。

イエスの言葉には、大半は同意するが、一部に同意できないことがあると一般の人たちは考える。そこで、すべてを捨てる。その同意できない一部こそがイエスの言葉の根底的意味であるのに、これを掘り下げて理解することをしない。理解できるところだけを受け入れて、一部を捨てるがゆえに、すべてを捨てる。こうして、小犬になることができない。恵みに与ることができない。これが人間の愚かさ、罪深さである。

我々は哀れにも、自分が捨てたものによって訴追されている。自分の捨てたものはイエスである。十字架に架けたのはわたしである。わたしが捨てたイエスは、十字架の上で訴えている。あなたはわたしのすべてを受け入れるのか。それとも、一部を受け入れるのか。あなたが受け入れることができないその一部もわたしのすべてなのに。一部を捨てることで、わたしのすべてを捨てるのだ。イエスは十字架の上からこう言われる。

女はすべてを受け入れた。自らが受け入れることができないと思えることも受け入れた。そこから新しい世界へと入って行った。小犬として、神の家に入って行った。小犬も家の中で神に養われている。彼女の魂の根底が神に結びついた。これが彼女の信仰の土台。彼女の生の根源。彼女のいのちの源泉。そこから、豊かに溢れる神のいのち。これが彼女に与えられた恵みである。

娘がダイモニオンに支配されてから、女は考えていたであろう。生きるとは何か。こんなになってしまった娘には生きる意味があるのか。わたしは何故ここにいるのか。女が問い続けた答えが彼女の魂の根底から聞こえてきた。第一のものを第一にせよと、聞こえてきた。イエスの口から聞こえてきた。「そうだ。第一を第一とすれば良い。わたしは第一の中に含まれている。第一のものの中で満たされる。」第一のものがすべてを内包している。内包されたすべてが第一のものには存在している。神が第一のものを造ったとき、第二、第三、そして、最後のものに至るまでのイメージを持っておられた。天地創造において、神は一日ずつ創造の御業を進めておられる。しかし、第六日に至るまでの全過程は第一日においても神のうちに存在している。思いつきで、一日ごとに創造したわけではない。そうでなければ、秩序はできなかったであろう。それゆえに、第一のものにはすべてが含まれている。すべてが第一のものから派生している。

マルティン・ルターは大教理問答書の十戒の解説において、このように述べている。「この第一戒(あなたは他の神々をもってはならない。)が最も重要で、心が神に対して正しい関係にたって、この戒めが守られるならば、他の戒めはすべてこれに従っておのずと満たされるからである。」つまり、第一のものを第一とするとき、すべては満たされるということである。ギリシア女が第一のものを第一としたとき、彼女は神の創造世界という家に入り、彼女の求めは満たされた。自分の力ではどうにもなり得ないと思われたダイモニオンが娘から出て行った。娘のいのちは神に創造された原初の姿になった。娘の根底であるお方が創造してくださった娘の原初の姿が現れた。神の家の中で生きている娘を彼女は見出した。娘は生きている。ダイモニオンから解放されて、神の支配し給う家に生きている。イエスの言葉の世界に入ったギリシア女と娘が生きている。これが今日与えられている新しい神の世界である。

我々キリスト者は、神の家に住む。神は、我々をご自身の住まいとして住んでくださる。神のうちに生きるわたしと、わたしのうちに生きておられる神、そしてキリスト。このお方のいのちが今日も与えられる。小さなパンの欠片として与えられる。しかし、キリストのすべてである欠片が与えられる。感謝していただこう。あなたのうちに入り来たり給うキリストのすべてをあなたが受け入れ、キリストがあなたのすべてとなりますように。

祈ります。

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