「魂の開け」

2021年9月12日(聖霊降臨後第16主日)
マルコによる福音書7章31節-37節

「そして、すぐに、彼の耳が開かれた。そして、彼の舌の鎖が解かれた。そして、彼は正しく語っている」と、イエスの癒やしの効果が詳しく述べられている。イエスは「エッファタ」、「開かれよ」と叫んだ。イエスが開くのではなく、神によって「開かれよ」とイエスは叫んだ。この出来事は、鎖からの解放であり、閉じられていたところからの解放である。しかし、これを閉じていたのは神なのか。人間が閉じたわけではない。神が閉じたのであれば、神が開くことができるということなのか。何のために、神はこの人の耳と口を閉じたのか。そこにどのような意味があるのか。この人は癒されることを求めているのか。それさえも、イエスに伝えることができず、イエスの言葉を聞くこともできない。この人から求められたわけではない。にも関わらず、イエスはこの人を癒す。周りの人たちがイエスに求めたからである。自分からは意思表示することができない人の代わりに周りの者たちがイエスに求めた。

ところが、イエスは群衆の外へと彼を連れ出す。そして、個人的に向き合って、癒した。耳が聞こえない人の耳に指を入れ、縛られている舌の鎖を解く動作をした。イエスは、身体言語を用いて、この人に伝えた。最後に、天を仰いでうめいてから、「エッファタ」と息を吐き出す。この一連のイエスの動きをこの人は見ていた。人々の外へと連れ出したのも、その人の視線が乱されないため。イエスとその人だけが体で語り合うため。イエスは、この人に語り掛けた、ご自身の身体を持って。ご自身の身体を通して、ご自身の魂をその人に伝えた。その人は、イエスの一連の動きによって、イエスの魂の声を聞いた。その人の魂が聞いた。この声は、音声ではない。魂の声である。魂から発し、魂へと届き、魂を開く声。それがイエスの身体言語である。

もちろん、この人は求めていたであろう、自分自身が縛られている鎖から解かれることを。この人が「正しく語る」のである。生まれながらであったのか、あるいは途中からなのかは分からないが、とにかくこの人は他者を眺めながら、語る言葉を聞きたい、言葉を語りたいと思っていたであろう。その求める心、その求める魂の声をイエスは聞いた。そして、イエスがその人の魂を呼び出した。イエスの魂と結びついたその人の魂が開かれた。自分を縛っていた鎖から解かれ、自由に生きることができるようになった。周りの者たちにも「素晴らしい」、「美しい」出来事だと映った。

魂が開かれる出来事、それがイエスの言葉、イエスの身体言語によって生じた。イエスはご自身の身体を持って語った。魂をもって語った。このような語り、このような言語は誰も語り得ない。人間には語り得ない。魂に届く言語はイエスの言葉である。それは群衆の外で、ただイエスとその人とが向き合うことで実現した。群衆から離れ、群衆に紛れず、一対一で神と向き合う。これが、マルティン・ブーバーが語った神との関係。我と汝の関係。神とわたしとが我と汝の関係に入ること。それが信仰の姿である。

我々人間はこの世において、我とそれ、我とあれという関係を作ってしまう。対話する関係ではなく、使用する関係を作ってしまう。そのような関係の中に入れられるとき、「それ」や「あれ」にされた人間は自分を認めることができなくなる。わたしは「それ」ではない。わたしは「あれ」ではない。こう言っても、誰も聞かない。この人を連れてきた人たちがこの人を「それ」と見ていたかどうかは分からない。群衆が「あれ」と見ていたかも分からない。しかし、おそらくこの人は孤独であった。対話する関係に入ることができないのだから。それでも、神との我と汝の関係に入るには、孤独を生きている魂でなければならない。理解されない魂が、その孤立の中で神と向き合うことができる。たとえ、人々が彼を連れてきたとしても、この人は孤独であった。対話に入ることができなかった。孤立した存在を、孤立した存在としてイエスは群衆から連れ出した。孤立させる必要があった。イエスとその人が我と汝の関係に入るために。この関係において、人間は魂を開かれるのである。

開かれた魂の語る言葉は「正しく語っている」と言われているが、それは「まっすぐに語っている」という意味でもある。脇に逸れることなく、まっすぐに語る。それが癒された人が語っている言葉である。まっすぐに、正確に、正しく語る魂は、まっすぐに神に向かっている。正確に自らの造り主を見ている。正しく、神を認識している。この人の魂はまっすぐにされたのだ。開かれた魂がまっすぐに神に向かうようにされた。そこに、イエスの魂が関わっている。イエスの魂の叫びが関わっている。天に向かってうめくイエスの魂の声が、天に届いた。天が開くように、その人の魂も開いた。その人の魂に向かって、天が開いた。天が開かれている。その人の魂が天に迎えられている。神との関係が開かれた。魂が開かれた。こうして、その人の魂と神との間には何ものも介在することなく、行き交う関係に入った。それがまっすぐに語る言葉である。

脇に逸れ、横道に入り、どこを歩いているのか分からない歩み。我々の歩みは概ねこのようである。まっすぐに神に向かっている者はいない。人間の在り方、人間の形式、人間の価値、人間の声に潜む悪魔の惑わしによって、我々は道を見失っている。自分自身を見失っている。自分の魂が縛られている。これが我々人間の罪の状態である。神の意志に従って生きようとしても、罪を犯してしまう。使徒パウロがローマの信徒への手紙7章7節以下において自らを嘆いている通り、我々人間は神にまっすぐに向かおうとして、逸れてしまう。罪を犯さないように気をつけていることで、罪に刺激される。罪に対抗しようとして、罪に巻き込まれる。我々は、自分ではどうにもしようがないところに置かれなければ、神にまっすぐ向かうことができないのである。

まっすぐ向かうということは、神の方がわたしにまっすぐ向いてくださっているということである。神がまずわたしに顔を向けておられる。それゆえに、罪に縛る鎖から解かれた魂は、神の御顔をすぐに見ることができるのだ。神は、あなたを見ておられる。イエスが別の福音書で語っておられる通り、隠れたところで、隠れたことを見ておられる神がいる。このお方が先にそこにおられることで、我々が鎖を解かれるとすぐ目の前に神がおられると知ることができるのだ。

この人の魂もすぐに知った。神が真実な在り方でそこにおられると知った。神がイエスを通して、向き合い、語り掛けてくださったと知った。神は、わたしをいつも見てくださっていたのだと知った。わたしが求めていることをご存知だったと知った。わたしのすべてが神のものであると知った。罪の鎖を解かれ、開かれた魂が、神と向き合うことができる。これが今日、イエスがこの人に与えた恵み。そして、我々キリスト者は、同じ恵みに与った者。あなたの魂は開かれている。神はあなたに御顔を向け続けておられる。決して、あなたを見失うことなく、あなたが求めればすぐに見出せるように、あなたに顔を向けておられる。イエスが別の福音書で語っておられる通り、「求めよ。そしてあなたがたに与えられるであろう。探せ。そしてあなたがたは発見するであろう。叩け。そしてあなたがたは開かれるであろう」という真実を生きることが可能なのだ。このお方に向かって、まっすぐに生きる魂は喜びに満たされる。まっすぐに生きる者は幸いである。何者にも妨げられることなく、自分らしく、造られたままに生きる。神に向かって生きる。神に向かって造られたわたしが、神の懐に憩い、平安を得る。これが救われた喜び。キリスト者の喜び。開かれた魂の喜び。

あなたの魂を罪の鎖から解き放つために、イエスは来てくださった。ご自身が罪の縄目を引き受ける十字架を負ってくださった。我々を解き放つために十字架を引き受けてくださった。イエスの魂の叫びは、あの十字架の上から聞こえている。「エッファタ」、「開かれよ」と聞こえている。汝の魂よ、開かれよ。神によって、開かれよ。神に向かって、まっすぐに開かれよ。開かれた魂の宿りである神に、栄光が永遠にありますように。祈ります。

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