「神の事柄」

2021年9月19日(聖霊降臨後第17主日)
マルコによる福音書8章27節-38節

「あなたは考えていない、神の事柄たちを。むしろ、人間たちの事柄たちを」とイエスはペトロを叱る。それは、ペトロがイエスを叱ったからである。「叱る」という言葉はエピティマオーというギリシア語で、正しい価値を計って、割り当てるという言葉である。ペトロがイエスを「いさめ始めた」と新共同訳で訳されているが、同じエピティマオーであって、「叱る」である。それは、正しい価値を計って、イエスが間違っていることを正すことである。目下であるペトロが目上のイエスの正しい価値を計って叱った。それゆえに、イエスはペトロを叱った。それは、ペトロの方が間違っているということである。ペトロが考えている正しい価値は、人間たちの事柄であって、神の事柄ではないと、イエスは言う。どうしてなのか。

ペトロがイエスの受難予告を叱ったのは、人間的に考えて、そのようなことを言ってはならないと忠告したということであろう。そのペトロを「悪魔」サタンだとイエスは言う。悪魔は、人間に人間の事柄が重要なのだと促し、神の事柄を無視するように勧めるということである。ここで、イエスが言う「神の事柄」と「人間たちの事柄」とはどのように違うのであろうか。

イエスのペトロ叱責から考えれば、「神の事柄」が受難であり、受難を止めさせることが「人間たちの事柄」だということになる。受難とは、イエス殺害であるから、殺害が起こるなどと言うなとペトロはイエスを叱ったのである。これが人間的な事柄であれば、殺害が起こることが神の事柄だとイエスは言うのだろうか。神が殺害をさせるということであろうか。イエスの安寧を願っているペトロがどうして叱責されるのか。神の事柄は、この世の安寧ではないということなのか。神はこの世が平和であることを願わないのだろうか。いや、平和のために生じるイエスの受難だということである。これは人間的には受け入れ難いことであろうが、神の事柄は受難を通して実現するということである。それだけではなく、神の事柄は人間には理解されないがゆえに、イエスの受難は起こってしまうということである。イエスの受難は、人間的な事柄ではなく、神の事柄が生じるために起こる神の出来事なのである。これを止めようとすることが、神の事柄を止めようとする人間的事柄になるのである。なぜなら、神の事柄は、この世では理解されないからである。理解する人間が多ければ、十字架は必要なかった。十字架は、人間が神の事柄を理解しないがゆえに生じたのである。

イエスが地上において宣教したのは、罪人たち、病人たち、徴税人たちなど苦しめられている人たちの側に神はおられるということだった。地上において、権威を持って、罪人たちを排除し、病人たちを汚れていると突き放していた人たちこそが、神の事柄を認識しない罪人であることをイエスは宣教した。それゆえに、イエスに批判された権威者たちが先導して、イエス殺害が起こった。これは人間たちの事柄である。しかし、その背後には神の意志があるということを人間たちは知らない。自分たちの安寧のために、イエスを殺害する。ところが、イエスの宣教は神の意志であった。それゆえに、イエスは復活するのである。イエスの十字架と復活は、人間たちの事柄の否定であり、神の事柄の勝利である。人間たちの事柄が神の事柄を否定してもなお、神の事柄は実現してしまう。これがイエスの受難と復活がさし示していることである。これを理解しないことが、人間たちの事柄と言われているのである。

この世にあって、否定された罪人たち。この世によって殺害されたイエス。この罪人たちとイエスとを神が受け入れてくださったということが、神の事柄である。我々が否定するこの世の現実は、神の事柄を背後に持っている。人間が否定する事柄が神の事柄であることは、隅の親石の言葉において語られているとおりである。人間たちが捨てた石が、隅の親石となった。これは人間たちには驚くべきことであって、考えることもできなかったことだと詩篇118篇の作者は歌っている。我々人間は、神の事柄を考えることができない。神の事柄は、我々が考え及ばないところで生じている。我々人間が否定しているところで生じている。我々人間が受け入れることができないことにおいて生じている。我々人間は、神の事柄を考えることはない。常に、人間たちの事柄を考える。

ペトロもイエスのことを考えているようでいて、自分のことしか考えていない。イエスが受難し、殺害されることなど考えたくもない。イエスが受難するならば、自分たちも道連れになってしまうであろうと思う。それゆえに、イエスを叱る。そんなことを言ってくれるなと。我々弟子たちは、あなたと受難するために付いてきたのではないと言いたかったであろう。むしろ、イエスが救い主キリストとして栄光を受けるとき、自分たち付いてきた者たちも栄光に与りたいと思うのである。自分たちも受難に与りたいとは誰も思わない。これが、人間たちが考える事柄である。イエスが、ペトロの信仰告白に対して、「誰にも言うな」と叱ったのも、彼らが人間的な事柄としてのキリスト告白をしていると分かったからである。ペトロの告白は、洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者と人間たちが並べられた後、「あなたはキリストとして存在している」という告白であった。ペトロは地上的人間と同列のキリストを考えているということである。おそらく、ペトロは、地上的王となるイエスを夢見ていたであろう。王座についたイエスの右と左に座るのは誰かと議論するのも同じ人間的な事柄である。そのようなペトロたちの思いを知って、イエスは「誰にも言うな」と叱ったのである。ペトロは、イエスに誉められると思っていたであろうが、叱られた。ペトロは何故叱られるのか分からなかった。結局、人間的事柄を考える人は、神の事柄を理解しない。そして、最終的には、イエスを捨てる。これが人間である。人間たちの事柄しか考えない人間である。

我々も、キリスト者とは言え、同じように地上的事柄ばかりを考えている。キリスト者が、地上的栄光を求める。教会が繁栄することを求める。たくさんの人が集まる教会を考える。弟子たちさえも、イエスを理解しなかった。弟子たちさえも、キリストを地上的にしか考えなかった。自分たちの栄光だけを考えていた。我々も同じである。キリスト者が地上的栄光を求める。人間たちの事柄を求めて、神の事柄を捨てる。

我々は本当に神の事柄を求めているのだろうか。地上的繁栄だけを求めているのであれば、我々は弟子たちと同じ。ファリサイ派とも同じ。律法学者たちとも同じ。祭司長たちとも同じなのだ。誰一人として神の事柄を考えることはない。それが我々人間である。キリスト者は、人間的事柄を捨てて、キリストに従った者である。そうであれば、我々は受難しなければならない。苦しみを抱えている人と苦しみを共にしなければならない。捨てられた人たちと共に生きようとしなければならない。イエスが生きたように生きようとしなければならない。これは義務ではない。必然なのである。必然的に、イエスに従うようにされた者がキリスト者なのだから。

イエスは言う。「自分を否定して、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」と。自分を捨てるとは、自分を否定すること。人間的にしか考えない自分を否定すること。そうしてこそ、神の事柄としての自分の十字架を取ることができるのだ。我々は、自分自身の罪深さを認め、受け入れ、自分を否認して、イエスに従う。イエスのうちに、我々のいのちはある。イエスの十字架のうちに、我々のいのちは輝いている。イエスが救い出してくださったわたしの魂がそこにある。イエスは、ご自身の体と血を通して、我々にいのちを与えてくださる。真実のいのちがあなたのうちに入り来たる聖餐を感謝していただこう。どんな代価でも買い取ることができないあなたの魂が、キリストによって買い取られたのだ。キリストの言葉によって、新しいいのちに与ることを保証された者として、キリストに聴き従おう。キリストは、あなたのうちに生きて働いてくださる。

祈ります。

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