「沈黙の罪」

2021年9月26日(聖霊降臨後第18主日)
マルコによる福音書9章30節-37節

「しかし、彼らは沈黙した。なぜなら、互いに彼らは議論していたから、道の中で、誰がより大きいかと」と言われている。イエスが「何を議論していたのか」と問うた言葉を聞いて、黙ってしまった弟子たち。彼らは、イエスに言えなかった、本当のことを。

また、イエスの二回目の受難予告を聞いて、彼らはイエスに尋ねることができなかった。「恐かったから」と言われている。分かっていたのだ、弟子たちは。しかし、その前には「彼らは認識しなかった、語られた言葉を」と言われている。認識しなかったにも関わらず、彼らはどうして「恐かった」のであろうか。「恐かった」ということは、受難予告が恐ろしい現実を語っていると認識していたということである。それなのに、「彼らは認識しなかった」と言われている。彼らは認識したくなかったのである。

我々人間は、聞きたくないことに耳を塞ぐものである。しかし、「聞きたくない」と認識している時点で実は聞いてしまっている。それで、聞いたことを「聞きたくない」と自分の記憶から追い出す。こうして、聞かなかったこと、無かったことにする。

先の弟子たちの沈黙も、彼らが自分たちのうちに起こった悪しき思いを認識しているがゆえである。イエスに何を議論していたのかを言えない。イエスの受難予告を聞いていながら、無視して、自分たちの中の大きさを競い合う。それは、恐ろしい現実を忘れたいからであろう。我々は、見たくないこと、聞きたくないこと、したくないことを回避するために、見なかったことにして、聞かなかったことにして、別のことを考える。こうして、自分を守る。弟子たちの沈黙も自分たちの罪を見ないための沈黙である。こうして、我々は沈黙の罪に陥る。弟子たちも、最終的にイエスを見捨てて逃げ去るが、そこにも沈黙の罪が生じている。

我々がそこから抜け出すことの困難さをイエスはご存知である。それゆえに、イエスは一人のこどもを取って、彼らの真ん中に立つ。どうして、こどもを抱き上げるのかと不思議に思う弟子たちに、イエスは言う。「これらのこどもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れている。わたしを受け入れている者は、わたしを受け入れているのではなく、わたしを派遣した方を受け入れている」と。目の前のこどもから、イエス、そして、派遣した方へとさかのぼっている。イエスが受け入れているこどもは、イエスを派遣した方から存在しているということである。イエスが受け入れていることに基づいて、目の前のこどもを受け入れることは、派遣した方を受け入れることなのだとイエスは言う。つまり、こどもが可愛いから受け入れるのではないし、こどもがなついてくるから受け入れるのでもない。神がイエスを通して、この子を受け入れておられると信じるから受け入れるのである。それが、仕える者だと、イエスはおっしゃっている。一己のこどもの存在の向こうに、神と派遣されたイエスの存在があるということである。これを土台として、こどもを受け入れる者は仕える者として生きるであろうと、イエスは言う。

しかし、それが議論への答えなのであろうか。イエスの言葉が答えているのは、いったい何か。より大きい者は誰かという議論への答えは、イエスの名のゆえにこどもを受け入れることである。つまり、こどもはもっとも小さく、弱く、もろい存在だから守らなければならないというだけではなく、イエスに、そして神に受け入れられている存在であると受け入れるということである。このような認識において仕える姿勢は、小さなこどもに当てはまるだけではなく、大人である他者にも言えるということである。究極的なお方から見るとき、すべての人の大きい、小さいは些細なことである。沈黙している罪を実は知っている弟子たちに、イエスは自分の根源に帰って見るようにと勧めているのである。そのとき、この世における大小、優劣は取るに足りないものとなる。沈黙している罪が働かなくなる道は、沈黙の奥の奥にある自分自身を神の前にさらけ出すことなのである。認識したくない思い、否定したい思い、受け入れたくない思いを抱えている自分の根底を見つめるとき、それらを越えてわたしを受け入れてくださるお方を知る。そのお方が派遣したイエスを知る。イエスがわたしを受け入れるために負ってくださった十字架を知る。この愚かな罪人であるわたしが、イエスの十字架によって受け入れられていることを知る。そのとき、我々は愚かさと罪深さを抱えつつも、愛されていることを知るであろう。沈黙の罪を神の前に犯すことなく、神の前にすべてをさらけ出して祈る者とされるであろう。そのとき、我々はイエスの十字架を受け入れるのである。わたしのための十字架として受け入れるのである。

こどもからさかのぼる信仰の道は、派遣する神に至る道。沈黙すべきは、自らの悪ではなく、自らの誇り、自らの栄光。悪については沈黙せず、神の前に申し述べる。自らの力、地位、財産、栄光、大きさを誇る思いには沈黙する。評価を求める心を沈黙させ、罪深さを認める心を雄弁にする。これがこどもを抱き、真ん中に立つイエスの心である。

我々は、イエスの心と正反対である。自分自身を深く見つめれば見つめるほど、我々は認識する。自分自身の罪を。自分自身の真実の姿を。自分自身の哀れな姿を。自分自身の愚かさを。自分のためにイエスが引き受けた十字架を。この十字架の前では、我々の誇りは無である。我々が自分を守る心の罪が明らかになる。それゆえに、十字架を見上げることが苦しくなる。十字架がわたしの罪を見せるからである。弟子たちが認識したくなかった罪が、十字架の上にある。弟子たちが恐れた自分の行く末が、十字架の上にある。このようになりたくないと沈黙した罪が、十字架に架けられている。

我々はどこに向かっているのか。どこに向かいたいのか。どこに平安があるのか。イエスの十字架は、弟子たちが求める真実の平安を与えるもの。我々が求めて止まない真実の平安を与えるもの。十字架の上にある平安を受け取るには、イエスに従って、自分を否定し、自分の十字架を取る必要がある。そこにおいて、我々は自分の罪を告白している。自分を否定している。自分の愚かさを神の前にさらしている。この哀れな罪人をお救いくださいと祈っている。そのとき、我々はイエスの受難予告を義しく認識するであろう。

イエスは、受難予告をこのように聞いて欲しいのだ。「あなたのために、わたしは人間たちの手に引き渡される。あなたのために、わたしは人間たちに殺される。あなたのために、わたしは三日目に復活する」。このわたしが自分自身の罪を認識し、イエスを引き渡してしまったことを悔い、新たな道を歩むようにと、イエスは語っている。すべては、わたしが義しく認識するため。罪の結果が生じようとも、すべては神の必然に帰結すると認識するため。

我々が過ちを犯してしまうのは、我々の罪のゆえ。しかし、神はその罪を贖うために、イエスを派遣してくださった。あなたが救われるために派遣してくださった。我々が、自らの沈黙の罪を認めて、イエスの前に、神の前にひれ伏すようにと、神はイエスを派遣してくださった。神は我々の罪深さをご存知である。我々自身では、罪から抜け出すことができないことをご存知である。我々が見たくないものを見るため、知りたくないことを知るため、受け入れたくないことを受け入れるため、イエスは十字架を負ってくださる。このお方の道を共に歩むために、我々キリスト者は召されている。

沈黙して罪に留まることなく、ありのままの罪深い自分を神の前に献げる者でありたい。我々が罪深くとも、救いたいと願ってくださるお方がいる。そのお方が、イエスを通して、我々を受け入れてくださる。一人のこどもを受け入れてくださったように、受け入れてくださる。何の資格も、必要ない。何の力も、必要ない。何の恐れも、必要ない。ただ、受け入れてくださるお方に信頼していれば良い。あなたはすでにイエスの御腕の中にいるこどもなのだから。

祈ります。

Comments are closed.