「いのちへ入る道」

2021年10月3日(聖霊降臨後第19主日)
マルコによる福音書9章38節-50節

「いのちへと入る」とイエスは言い、「地獄へと出て行く」あるいは「地獄へと投げられる」と言う。「いのちへと入る」ことと「地獄へと投げられる」ことの違いは、躓かせるものを切り捨てるか否かである。「躓かせる」という言葉はスカンダリゾーというギリシア語で、何かに躓いて倒れることを意味する。その躓きの原因である何かを切り捨てることで「いのちへと入る」こと「神の国へ入る」ことが実現するとイエスは言う。

「入る」ことは自分の力で入るのではない。神によって入れられていることである。「投げられる」ことも神によって地獄へ投げ出されることである。どちらも神が起こしている。しかし、「入る」ことが示しているように、受け入れるか否かで分かれる。「入る」ことが受け入れることであり、「投げられる」ことが受け入れないことであるなら、神の起こした状態に素直に従うとき、人は「神の国へ入っている」と言える。「神の国へ入ろう」とする必要はないのに、入るために自分の力が必要だと考えるとき、我々は「投げられる」ことになる。では、他者を躓かせることと自分で躓くことの違いは何であろうか。

他者を躓かせる者は他者をいのちから離れさせることになる。神を信頼することができなくさせてしまうことが「躓き」だからである。そのような場合、躓いた他者は可哀想である。このような関わりをした者は、海へと投げられて然るべきだとイエスは言う。自分が躓くことと、他者が躓くことはどちらが重いかと言えば、他者を躓かせることである。自分の躓きが、自分の手や足や目によって起こるのであれば、自分で切り離すことができる。しかし、他者を躓かせることは自分で切り離すことはできない。神を信頼できず、神の国へ入ることができない人を作り出してしまった罪は、躓かせた人も同じように「地獄へ投げられる」ことでしか贖えない。これは当然である。だとすれば、自分自身の傲慢さを知った者が、手、足、目を自分で切り離して、いのちへ入る方が良いということも当然である。これらのイエスの言葉は、厳しいようでいて、実はその人がいのちへと入ることを願っての言葉である。他者がいのちへと入ることを願っての言葉である。そのために、イエスは地上に派遣されたのだから。

我々は、躓かせるつもりがなくとも、躓かせることがある。心ない言葉で、他者を躓かせる。他者の苦しみに思い至らず、他者を躓かせる。弱っている人を責めて、躓かせる。自分が苦しいときに、他者を責めて、躓かせる。わたしの人間的な思いが他者を躓かせる。躓きは、いつでも、どこでも起こる。これを避けることができるのであろうか。

弟子たちはイエスに言った。「ある人が、あなたの名において、悪霊を追い出していた。そして、わたしたちは彼を止めさせた。なぜなら、彼はわたしたちに従っていないから」と。この言葉に対して、イエスは「わたしたちに敵対して存在していない者は、わたしたちのために存在している」とおっしゃった。そして、「キリストのものとして存在しているこれらの小さな者に水一杯を飲ませる者は、決して彼の報いを破壊しはしない」とおっしゃる。つまり、小さな者が水一杯を受け取るとき、小さな者は神への信頼を保持するということである。

弟子たちが競合しているように思っていた人を「キリストのものとして存在している小さな者」とイエスは言った。つまり、イエスの名において何事かをなしている者は、キリストのものとして存在しているのだと言った。自分たちと同じ方向に向かうか否かが問題なのではなく、「キリストの名において」行っているか否かが問題なのだと言うのである。その人たちを止めさせることは、彼らを躓かせることになると言うのである。どうしてなのか。

地上において、生きる方向が違う人は多い。さまざまな考えによって、我々人間は違う方向で生きている。しかし、その根底にあるものが「キリストの名において」なのであれば、生きる方向、実行する方向が違っていても根底が同じなのだから、「わたしたちのゆえに存在している」人たちなのだとイエスは言うのである。この根底的な事柄「キリストの名において」ということが同じであれば、現れている方向が違うとしても認め合わなければならないということである。

弟子たちの問題は、後のキリスト教会の問題を先取りしている。キリストの教会において、同じ「キリストの名において」行われていることであろうとも、方向が違うということで互いに批判し合うことが起こってきた。キリストを宣べ伝えているのであれば、方向が違っても、違う方向性の人たちは生きることが許されるのである、「キリストの名の中に」。あるいは、その人たちの生きる方向を認めることができるのである。ところが、自分たちの方向に従わない者は「キリストの名において」行っていないと判断することが起こった。異端審問などもそうであろう。我々人間は、どうしても自分の利益が破壊されたくないと思う。そのために、他者を止めさせることも起こる。

しかし、現れていることではなく、見えない根底については、同じであるか否かは分かり難い。マルティン・ルターは、現れていることの根底にある問題を提起した。それが、神の意志の絶対的必然性によってすべてはなるということに留まるか、それとも人間の自由意志によって神に従うようになるのかという問題であった。ルターは、この世の事柄については人間の自由意志を認めた。しかし、神の事柄については、人間には罪の奴隷的意志しかないと言った。自己意志の力に頼って、神に信頼しないことになると考えたからである。これは根底的な問題である。

我々が行っていることの根底に何があるのか。これが、イエスが山上の説教で問うた問題であった。しかし、我々人間は現れによって、神に従っているか否かを判断してしまう。それゆえに、罪人や病人、徴税人たちが排除されてしまった。そのような社会の中で苦しんでいる人の側にイエスは立った。そして、十字架を負われた。我々人間は、ルターが言うように、自分の力では必ず罪を犯してしまう。それが、イエスが今日教えておられることでもある。我々は、必ず罪を犯す。神に信頼することなく、他者を躓かせる。このような人間が救われる道は、いのちへ入る道は、どこにあるのかをイエスは教えてくださった。このわたしが躓かせている人がいる。このわたしが躓いていることがある。躓きを与え、自分で躓き、我々の世界には躓きが至るところに存在している。そのような世界にあって、我々は「塩を持たなければならない」とイエスは最後に言う。わたしのうちに塩を持つのだと。

塩を持つということは、わたしを浄める塩を持つこと。その塩とは、イエスの言葉。イエスの言葉を持つことによって、我々は自分自身を顧みることができる。他者を測るのではなく、自分を測る。これが、イエスが言う塩である。みことばを聞いて、「わたしのことだ」と思うとき、わたしは自分のための塩を持っている。そして、罪深い自分を省みる。我々は絶対的に罪人であることを知らなければならない。善を行っても罪を犯す者であることを知らなければならない。それでも、イエスの言葉という塩を持っているならば、我々は浄められていくであろう。毎週、罪の告白を繰り返すとしても、少しずつ浄められていくであろう。そのために、イエスは語り続けてくださる。

我々は、自分自身を省みなければならない。自分の罪深さを見つめなければならない。わたしのうちには抜け出せない罪の奴隷的意志しかないことを受け入れなければならない。このわたしのために、イエスが引き受けてくださった十字架を仰がなければならない。イエスは、このわたしのために十字架を負ってくださった。このわたしのために、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。わたしが浄められるために、塩を与えてくださる。我々を地獄から救い出し、いのちへと入る道を歩ませてくださる塩。イエスの言葉に基づいて、イエスの体と血とを感謝していただこう。

祈ります。

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