「創造の始めから」

2021年10月10日(聖霊降臨後第20主日)
マルコによる福音書10章1節-16節

「しかし、創造の始めから、男と女として、彼は造った、彼らを」とイエスは言う。「創造の始めから」にさかのぼって言う。現在の離婚問題を提起したファリサイ派の人々に対して、遙か昔の神の人間創造の話を始める。ファリサイ派が提起した離婚問題の根底にあるのは、神の創造の問題なのだとイエスは言うのである。

我々人間は、現実問題を論議する際、そのようなことは考えない。現実の問題は神の創造とは関係ないと考えてしまう。離縁状を渡せば離婚できるということが律法に適法であるかどうかという問題はその律法をどう解釈するかの問題である。ところが、イエスは律法解釈ではなく、神の創造の意志はどうであったかを語る。男と女に造った神は、二人が一つの肉になることを願ったのだと聖書の言葉を引用する。この意志を無視することは律法の問題ではなく、神の創造の意志を無視する問題なのだと言うのである。

ファリサイ派は、律法を如何に守るかを探求していた。彼らは、律法を守り、神の意志に従っていると思っている。ところが、創造の始めからのことを考えてはいない。むしろ、申命記24章に書かれている離縁状の条項を神の意志だと考えている。それに対して、イエスはモーセが書いたことだと言う。しかも、あなたがたの頑なな心のために書いたのだと言う。それは神の意志ではなく、モーセの譲歩だと言うのである。確かに、聖書に書かれている細かな律法は、当時の問題に対処するために、定められたであろうと考えられている。それは神の意志を現実に当てはめて、実行可能にするための人間的譲歩なのだと考えられる。それでは、神の意志は無視されていることになる。イエスは、創造の始めにさかのぼることによって、彼らの頑なな心を指摘した。さらに、弟子たちにもイエスは言う。「また、彼の女を追い出して、他の女と結婚する者は、姦淫している」とまで言う。一方的自己都合で、離婚、結婚を繰り返すことが神の意志への反抗だということである。イエスが言う「創造の始めから」の問題は、神の意志が創造の始めにあったことを認めるということである。原初にあった神の意志がすべてであり、原初の神の意志を人間が書き換えることが離縁状の問題なのである。

さらに、こどもたちを押し留めようとする弟子たちに対して、「彼らを妨げるな」と言う。「なぜなら、このような者たちのものとして存在しているから、神の国は」と。この言葉と創造の始めからの言葉とは一つである。創造の始めから存在している神の意志が神の国の中心である。神の意志に従っているのは、幼いこどもたちであって、大人ではないということである。大人は、世間体などに縛られて、こどもの素直な行動を制限する。こどもたちが勝手に動くことを制御しようとして、押し留める。イエスに親和性を感じて、近づくこどもたち。その思いを感じて、イエスに触れて欲しいと連れてくる親たち。これを止める弟子たち大人。この出来事で問題なのは、押し留める大人である。

こどもたちは神に与えられた親和性を感じる感応力を持っている。親和性は誰にでもあるわけではなく、神が付与した者同士が感じるものである。これを素直に表すのはこどもたち。大人は、親和性を感じても理性によって、押し留める。場を弁えて、押し留めることが大人であることだと教えられている。こうして、大人は神の意志を無視することを社会性だと考えるようになる。それゆえに、素直に感じたように生きるこどもたちこそが神の国の住人であるとイエスは言うのだ。神の国は、神の意志が貫徹している国だからである。従って、先の「創造の始めから」の言葉と「こどもたちを手放せ」という言葉は神の意志を中心に物事を見るようにという意味になる。「創造の始めから」存在した神の意志。この意志があってこそ、我々人間は存在している。我々一人ひとりは神の意志によってこの世に生み出された。この我々の存在意義は、神の意志にある。世間体に従うことが存在意義ではない。周りを気にして、取り繕うことで存在意義が認められるのではない。神がわたしを造り、わたしのうちに起こし、結びつけ給う意志。その意志に従うことをイエスは求めておられる。

我々人間は、この地上で生きざるを得ない。自分の居場所を確保するために、世間に嫌われないように、批判されないように気を遣って生きる。それが、「モーセが書いた」とイエスが言う意味であろう。モーセでさえも、民の批判、民の不満に譲歩せざるを得なかった。しかし、神の意志は「創造の始めから」厳然とある。神の創造の意志こそが確かなのである。これを無視するのは、人間の意志である。モーセさえも人間の意志に譲歩して、離縁状の項目を書いてしまった。さらに、その項目を「離縁状を書けば律法に背くことなく離縁できる」と解釈したファリサイ派や律法学者たちの問題。人間は自己都合によって、少しずつ神から離れて行くのである。そして、ついには遠く遠く離れてしまう。

イエスはファリサイ派がイエスを試そうとして問うてきたことは了解している。この試しは、荒野の誘惑において、悪魔がイエスを試したことと同じである。ファリサイ派は、イエスが離縁状を認めれば、冷たい人間だと批判するであろう。認めなければ、律法に書いてあるのにと批判するであろう。どう答えようとも、批判するつもりで彼らは問うてきた。それゆえに、直接その問題に答えることなく、神の意志にさかのぼって答えた。これに対しては、誰も反論できる者はいなかった。

しかし、反論できなかったことが重要なのではない。イエスが彼らをやり込めたことが問題なのではない。イエスが求めているのは、神の意志に従うこと。神の意志がどこにあるかを認めること。神の意志が、創造の始めから定まっていることを認めること。それだけである。創造の始めにあった神の意志は変わりなく、今も続いていることを認めること。それが、イエスが求めておられることである。我々人間を男と女として造った神の意志は、一つの肉になるようにという意志であった。そうなるべく、親和性を付与された者同士が結ばれるであろう。これを人間が引き離してはならない。それだけである。同じように、こどもたちは親和性を感じる存在に近づくであろう。これも妨げてはならない。彼らは手放されているべきなのだ。神が付与した親和性があるのだから。神は、その子と結びつくべき存在を備えて、その子が守られるようにと導いておられる。これを妨げる人間的価値観、社会通念は、神の意志に反しているであろう。これを受け入れることができる者も、神の意志に親和性を感じて、受け入れるのである。これは「聞く耳のある者が聞く」ことと同じである。

我々人間は、神によって造られた。神の意志によって造られた。この神の意志を、人間的次元で再解釈して、律法を守りやすくすることは、神の意志を追い出すことである。女を離縁状で追い出す者は、まさに神の意志を追い出すのである。イエスは、この根源的罪を認めるようにと語っておられる。現実に現れている問題の根底にあるのは、根源的罪であり、神の意志の追い出しなのである。この追い出しは、イエスの十字架刑にまで及ぶことになる。イエスの十字架刑は、神の意志に立ち帰るように語ったイエスを追い出すだけではない。神の意志を追い出すこと。神との離縁の問題になるのである。

人間からの離縁状であるイエスの十字架刑は、神の意志によって覆された。イエスの十字架刑によって突きつけられた離縁状を神が破棄し、神が新たにいのちを付与した出来事が復活だからである。我々は、神を離縁していた存在だが、イエスの十字架と復活によって、創造の始めからの神の意志に連れ戻された。我々キリスト者はそこに立つようにと連れ戻された。ここから離れることがないようにと、イエスは我々に語り続けてくださる。あなたを創造したお方は、あなたが素直に神の国へ入ることを願っておられる。あなたは誰はばかることなく、神の意志に従うことができる。創造の始めから存在する神の意志があなたを造ったのだから。

祈ります。

 

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