「欠けを満たす欠け」

2021年10月17日(聖霊降臨後第21主日)
マルコによる福音書10章17節-31節

「誰も存在していない、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑を手放した者は、わたしのゆえに、そして福音のゆえに。もし、彼らが百倍を取らないならば。」とイエスは言う。イエスのゆえに、福音のゆえに、手放す者は、必ず百倍を取るのだと言う。それが実現するのは、永遠の世だけではない。このカイロスにおいても取るのだと言う。しかし、この世においては「迫害と共に」取るのだと言う。新共同訳が訳すように「迫害も受けるが」ということではなく、「迫害と共に」ということであれば、百倍を取るには迫害が必ず伴うということである。迫害もなく、百倍を取ることはないということである。従って、このカイロス、神の時においては、迫害を受けることが必然だとイエスは言うのである。これを避けるならば、「福音のゆえに、手放す」ことや「イエスのゆえに、手放す」ことは行われていないということである。

我々は、良いことだけを取りたい。苦しいことは避けたい。それが「福音のゆえ」であろうと「イエスのゆえ」であろうと、自分が苦しむことは避けたい。「福音のゆえに」生きているならば苦しむことはないであろうと考える。「イエスのゆえに」生きているならば迫害などないであろうと考える。我々が、迫害などない現代に生きるキリスト者だからである。しかし、イエスの当時もその後も、キリスト者は迫害を受けた。迫害と共に、百倍を取ったのである。これを忘れてはならない。

今日、イエスの許にやってきたある人は、幸いだけを求めている。自分にとって良いことだけを求めている。自分が獲得し、積み上げることを求めている。自分が欠けるところがあれば、それを満たさなければならないと、さらにイエスに聞く。「善なる先生、何をわたしは行いますか、永遠のいのちをわたしが相続するために」と。彼が言う「行う」ことは、彼が実行できることであり、何かを獲得して、欠けを満たすことである。イエスは、この人に対して、十戒の言葉を語る。それらを若い頃から、良く見守ってきたと答える彼に、イエスは言う。「一つ、あなたに、欠けている」と。彼は、いよいよ期待する答えを聞けると思ったであろう。ところが、イエスの答えは、持っているものを売って、貧しい人たちに与えよ、ということであった。そして、「あなたは持っている、宝の倉を、天のうちに」と言う。

天に、宝の倉を持っていても、この地上では使うことができない。まして、持っているものを売って、貧しい人に与えるならば、彼らは使い果たしてしまうだけであろう。そして、自分は何もなくなってしまう。それが答えかと、悲しみながら、彼は出て行った。彼が期待した、さらに獲得すべきことは「欠ける」ことだった。彼は、欠けることができなかった。失わないように、ひたすら積み上げてきた。それなのに、それらを手放して、欠けてしまうようにと言われたのだ。これまでの生き方を逆転しなければ、このようなことはできない。彼は、これはできないと落胆した。

彼は、何でもできると自負していたであろう。しかし、彼には欠けることができなかった。失うことができなかった。満たさなければならない欠けが一つとイエスが言われたのは、欠けることだった。欠けることで満たされる欠け。彼に不可能な欠けること。この不可能性に直面させられた。自分ではどうにもできない不可能性。イエスは、彼にこれを知って欲しかったのであろう。

我々人間が罪を犯したのは、自分の可能性を実行することによってであった。食べることができることで、善悪の知識を獲得することができる。獲得することで、神のようになることができる。そのようにして、我々は罪を犯した。この金持ちの思考も同じである。すべて獲得すること、自分ができるという可能性を実行すること、それが永遠のいのちを相続する資格獲得に至ると考えること。これが金持ちの思考であり、それでは不完全なのだとイエスは言うのである。自分ができないこと、不可能であることを受け入れること。欠けることができない存在なのだと受け入れること。そこにおいて、永遠のいのちは相続されている、天の倉において、とイエスは言うのだ。

我々人間は、努力すれば何でも可能だと思わされている。しかし、欠けることは努力しても不可能なのである。欠けるように努力する人はいない。持たないように努力して、持たなくなったという人はいない。我々は、努力して、積み上げて、より良くなっていくという思考に支配されている。果たして、そうなのかと、イエスは言う。「一つ、あなたに、欠けている」と。あなたには欠けることができないという欠けがあるのだと。その欠けはあなた自身では満たすことができない欠けなのだと。金持ちに欠けている一つを、イエスは知って欲しいのである。欠けることができない無力さを知って欲しいのだ。しかし、その無力さの中で、あなたは欠けているが、神が天に倉を持っているのだと、イエスは言う。神が天に倉を持っているのだから、あなたは悲しむ必要はないのだと言う。彼を愛して、イエスは言う。愛の眼差しの中で、その人は悲しみながら出ていった。愛の眼差しの中に置かれることで、悲しむことができた。自らの不可能性を知ることができた。

彼は、ただ悲しむしかない無力さを知ったのだ。先を歩いていると思っていた彼が後にならざるを得ないところに立たされた。我々も、自分自身の力の及ばないことに出会うと、無力さを感じる。しかし、いつも感じている人たちがいる。弱い人たち、貧しい人たち、病気の人たち。彼らが努力しなかったからそうなったのだと、誰が言えるであろう。貧しさに、病に陥ってしまったのだ。これを、罪の罰を受けていると言う人たちもいた。良くなろうとする努力が足りないと言う人もいた。努力できる状況にあるから言える。努力する力もない人に足りないと言う。その気力をそがれているのに、鞭打つように努力が足りない、自助努力せよと言う。獲得する生き方では、そのような思考になってしまう。このような思考を持っていた金持ちにイエスは言った。「一つ、あなたに、欠けている」と。自分で欠けを満たすために欠けよと言われたのではない。欠けを満たすのは神であると知るために、欠けよと言われたのだ。そうすれば、あなたを満たすお方が天に持っておられる宝の倉を、あなたは持っているのだと。

我々人間は、欠けを知るだけではなく、欠けを満たすお方を知らなければならない。そのお方の御子イエス・キリストは、ご自身で欠けることができるお方である。十字架において殺害される欠けを生きたお方である。イエスは、神であるがゆえに、欠けることができる。我々欠けることができない人間のために欠けることができる。このお方の欠けが、我々の欠けを満たす欠けである。欠けることができない人間の欠けを満たす聖なる欠け。それがイエス・キリストの十字架。神が欠けるはずがないと思う人間には理解不能な聖なる欠け。このお方が負ってくださった欠けである十字架が、我々欠けることができない人間の欠けを満たし、欠けることができないわたしを満たしてくださる。この聖なる欠けは、神にしか満たすことができない欠け。完全である神は欠けることもできるお方。それゆえに、イエスは言う。「すべてのことは可能なこと、神の許で」と。「人間の許では不可能」が存在する。人間は不可能な存在である。しかし、神の許に生きる人間は、神に包まれ、不可能ではない生を生きる。

イエスは、金持ちに、そして弟子たちに不可能を教え、不可能ではない神を指し示した。このお方の愛が、金持ちを包んでいるように、我々をも包んでいる。不可能性を認めるようにと、神の愛で包んでくださる。ご自身の体と血を与えて、わたしをあなたに与えると言ってくださる。この喜ばしい恵みの賜物を感謝していただこう。あなたはイエスの愛の眼差しの中で、見守られ、導かれている。欠けている自分自身を神の前に差し出して生きて行こう。先であろうと後であろうと、イエスに従うならば、必ず神の国へと導いていただける。聖なる欠けによって満たされている自分自身をイエスに献げて、共に歩いて行こう。

祈ります。

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