「イエスが歩く道を」

2021年10月24日(聖臨降臨後第22主日)
マルコによる福音書10章46節-52節

「道ばたに座っていた」ティマイの息子、バルティマイは、イエスに癒された後、「道の中で」イエスに従った。道の中を歩くことができない存在が、道の中を歩く存在へと変えられた。イエスに従うことによって、道の中で歩くことができる。これが最後に示されているイエスに従うという道、イエスが歩く道を歩く信仰者の生である。

ここで名が語られているということは、無名の人ではなく、キリスト者の間で知られるようになったバルティマイだったのであろう。最初、この人は誰からも呼ばれることなく、道の脇に座っているしかなかった。道を通る人たちは、互いに名を呼び合う。しかし、彼は人々の視界に入らず、呼ばれることもなかったであろう。そのようなバルティマイは、道ばたで聴いていたのであろう、イエスの噂を。人々が、道の中を歩きながらイエスについて話しているのを聴いたのであろう。

ある日、彼が座っている道ばたに聞こえてきた。ナザレのイエスが目の前の道を歩いていると。彼は叫んだ。「ダビデの子、イエスよ。わたしを憐れんでください」と。イエスが目の前を歩いているのかどうかは分からない。ただ、自分がその脇に座っている道の上をイエスが歩いていると聞こえてきた。とにかく、彼は叫んだ。どのくらい離れているか分からないので、大声で叫んだ。道を歩いている多くの人たちが、その声を聴くほどの大声。バルティマイが静かにするようにと、彼らが叱ったほど、大きな声だった。それでも、彼は叫んだ。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と。イエスは、その声を聴いて、立ち止まった。「彼に声をかけなさい」とイエスは言う。

初めて、彼は呼ばれた。初めて呼ばれたのがうれしくて、彼は服を脱ぎ捨てたほどであった。あまりにうれしくて躍り上がって、イエスのところへやってきた。「何を、あなたに、わたしが行うことを、あなたは意志しているのか」とイエスは聞く。バルティマイは、自分の意志を聞いてもらったことがない。道を歩く人たちは、彼が望んでいるものではなく、勝手な先入観で小銭や食べ物を置いていく。彼は一度も何を望んでいるのかと聞かれたことはない。そのバルティマイの意志をイエスは聞いた。初めて、自分を認めて、受け入れてもらったバルティマイ。自分を認めて、意志を聞いてくれたのだから、「わたしの先生」ラブーニと彼はイエスに言う。初めて、わたしの先生を得た。人々が、道を歩きながら、「ラブーニ」と先生を呼んでいる言葉を聞いたことがある。わたしにも先生ができたぞと、バルティマイは喜んだ。彼は、自分の意志をイエスに伝える。「わたしの先生、わたしが新たに見るために」と彼は言った。

「新たに見る」、「再び見る」というアナブレポーという言葉は、また「上を見る」という意味でもある。彼は、道ばたに座って、下を向いていたであろう。彼は、上を見て歩きたいと思ったであろう。顔を上げて歩きたいと思ったであろう。上には、天の神さまがおられる。天の神さまに向かって、顔を上げて歩いて行きたい。彼の意志を聞いてから、イエスは言う。「行け。あなたの信仰が、あなたを救ってしまっている」と。あなたが意志をもって願ったことは、あなたの信仰であり、その信仰があなたを救ってしまっていると、イエスは言う。すると、「すぐに、彼は上を見た、新たに見た、再び見た」と記されている。イエスの言葉を聞いた瞬間に、彼は語った意志通りに上を見たのだ。イエスの言葉は、バルティマイの信仰世界を瞬時に開く言葉であった。そして、ようやく、彼は「道の中で」歩くことができるようにされた。彼はイエスに従って、道の中で歩いて行く。彼は道の中を歩く者へと変えられ、イエスに従う者とされた。

道ばたの生から、道の中の生へ。バルティマイの人生は一大転換を起こした。彼が服を脱ぎ捨て、躍り上がったように、彼は今までの自分を脱ぎ捨てて躍り上がった。道ばたから抜け出すことはできないと思っていたであろうバルティマイは、イエスに出会うことで、道の中を歩く人生に転換した。もちろん、イエスが歩く道は最終的に十字架に至る道である。道の中を歩いていると思っているバルティマイは、道の端へと追いやられるイエスを見ることになるであろう。それでも彼は上を見て歩いて行くであろう。わたしの先生を見上げながら。

独り座していたところから、わたしの先生に従う生を与えられたバルティマイ。彼の人生は、道ばたから救われた。道ばたの独りが救われた。彼の人生の師、人生の主が、先を歩いておられる道を彼は歩いて行く。この生の果てに、何があろうとも彼はイエスが歩く道を歩いて行く。わたしの先生が奪い去られたとしても、彼は上を見ている。上にいる先生を見ている。

我々人間は、上を見て歩くべきなのだ。上には、計り知れない恵みが蓄えられている。天にある宝の倉がある。神の倉から、無尽蔵の恵みが降り注いでいると、バルティマイは知った。この恵みの降り注ぐ中を、イエスが歩く道を、イエスに従って歩いて行くバルティマイ。エリコの道ばたから解放されたバルティマイ。彼の道は、イエスの道。イエスの道は、彼の道。彼が見出した自分の意志を、献げるべきお方を見出したバルティマイ。彼の人生は、躍り上がるほどの喜びに入った。イエスに出会って、彼は自分自身を生きる道を見出した。自分らしく生きる道を見出した。誰も見てくれない人生から、イエスが見てくれる人生へ。誰も呼んでくれない人生から、イエスに呼ばれる人生へ。誰も認めてくれない人生から、自分を認める人生へ。イエスによって、呼び出されたバルティマイ。彼は、イエスによって、憐れみを受けた。

「わたしを憐れんでください」と叫んだバルティマイは、憐れみを受けた。憐れみとはお情けではない。憐れみエレオスというギリシア語は、ヘブライ語のヘセドの訳語である。ヘセドは、神の愛。神の真実エメトと対で使われることが多い。神の愛の真実を表す言葉が新約聖書ではエレオスなのである。バルティマイは、イエスにこう言ったのだ。「神の愛の真実を注いでください、わたしの上に」と。それに応えて、イエスは神の愛の真実を受け取るべき彼の意志を確認した。それが、イエスが言う「あなたの信仰」なのである。

バルティマイがイエスに語った「上を見るために、わたしに行ってください」という彼の意志が指し示しているのは、「わたしは神の愛の真実を信じています。どうか、神の愛の真実をわたしの上に注いでください。わたしは上にあるお方の憐れみを信じています。」という彼の信仰である。この信仰を認めたイエスは、「行きなさい」と言う。「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と。あなたに与えられた信仰があなたを救ってしまっている。救いはすでに完了している。あなたが上を見ようと意志するだけで良いのだと、イエスはおっしゃっているのである。

我々が信仰を持って歩いて行くということは、すでに完了してしまっている救いの事実を見ようと意志することなのである。そのとき、我々はイエスが歩く道を歩いて行くことができる。その道が苦難の道であろうとも、先立つイエスが歩いている道なのだ。イエスが歩いた後をついて行けば良い。何も迷うことはない。イエスに信頼して歩くだけ。それが、我々が歩く信仰の道である。

イエスはこの道を歩くように招いてくださる。苦難の道を歩くイエスの道を歩くように招いてくださる。この道こそが、唯一の天への道。上を見上げる道。上に至る道。上に昇る道。この道の上を歩き続けるために、イエスは日毎にみことばを語ってくださる。失望することなく、ただ上を見上げ、歩き続けよう。あなたを憐れむ天の父が、あなたを迎えてくださる神の国に向かって。イエスが歩く道は、神の国へ続く道。あなたが歩く道は、イエスの道と一つとされ、イエスが先立ち給う道。この道の上で、上を見上げて歩いて行こう。

祈ります。

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