「愛の熱意」

2021年10月31日(宗教改革主日)
ヨハネによる福音書2章13節から22節

「わたしの父の家を、商売の家として作るな」とイエスは言い、縄で鞭を作り、すべてのものを追い出した。イエスのこの激しい行動はどうして起こったのか。それを後に弟子たちは思い起こしたと記されている、聖書の言葉の実現として。「あなたの家の熱意がわたしを食い尽くした」という聖書の言葉がイエスの上に実現したと弟子たちは思い起こした。イエスの神殿浄化の激しい行動は、「あなたの家」である父の家に宿っている「熱意」に支配された結果だと弟子たちは理解した。この「熱意」は神殿に宿る父なる神の愛の熱意である。なぜなら、神殿という父なる神の家はイエスをこの世に派遣した父の愛が宿っている家だからである。

この父の愛はヨハネ福音書3章16節に記されている。「なぜなら、このように愛したから、神は、世を。独り息子を彼が与えたほどに。その結果、彼へと信じている者すべてが、滅びないために、むしろ、永遠のいのちを持っているために。」と言われている。この世のすべてを愛し、独り息子を世に与えた父。独り息子が十字架の死を引き受けるために、世に与えた父。この父は、イエスへと信じる者を求めている。信じる者が滅びないことを求めている。永遠のいのちを持っていることを求めている。そのために、父は独り息子を派遣した。この派遣に宿っている愛に促され、イエスは神殿を浄化した。派遣されたイエスは、父の愛に食い尽くされ、支配されている。弟子たちが、聖書の言葉を思い起こしたのも肯ける。イエスを食い尽くした父の愛が、イエスを浄化の行動へと押し出した。イエスの激しい行動の根源には、父が世を愛する愛が存在している。イエスの行動は、父の愛の熱意に支配された結果なのだ。

父の愛を受け取るべき場所が、商売によって人々からお金を巻き上げる場所に変えられている。父の愛は無償で与えられているのに、誰でも無償で祈り求めることができるのに、商売の場所とする。商売とは、この世の生活において必要なことではある。しかし、聖なる場所を生活の場所として利用して良いはずはない。この場所は、商売する権利を持った誰かが生活の糧を得る場所ではない。誰であろうともすべての人が神の愛を受け取るための場所である。お金がある者だけが、犠牲の動物を買い、献金のための両替をする。お金のない者たち、貧しい者たちが排除されている。そのような場所であって良いはずはない。イエスは、父の愛の熱意を守るために、この場所を浄化した。この熱意は、父とイエスとが一つであるがゆえに、イエスに宿っている熱意である。

この熱意を理解しない者たちが、イエスを批判する。「どのようなしるしを我々に示すのか」と。しるしと言われる奇跡を行えば、それに我々が納得すれば、許してやろうという言葉に聞こえるが、彼らはただ批判するためだけに、問うている。それに応えて、イエスは言う。「あなたがたは壊せ、この聖所を。そして、三日において、わたしは起こすであろう、それを」と。弟子たちは、イエスが十字架を越えて、死者たちから起こされたとき、つまり復活したとき、思い起こしたと記されている、「イエスの体の聖所について」イエスは言ったのだと。

イエスが死者たちから起こされるという受動態が語っているのは、父なる神がイエスを起こしたという復活である。ところが、イエスは「三日において、わたしは起こすであろう、それを」と言っている。イエスは自分で起こすと言っている。実際は、神によって起こされたのに、自分で起こすとはおかしいではないか。ところが、イエスご自身は父なる神の愛に満たされている。父なる神と一つである。それゆえに、「三日において、わたしは起こすであろう、わたしの体の聖所を」とおっしゃった。父なる神の愛が、イエスを起こした。イエスは、父なる神の愛と一つとされ、ご自身の体の聖所を起こした。これは一つの神の御業なのである。起こされたイエスの体の聖所。この聖所において、父なる神の愛を、誰もが無償でいただくことができる。これがイエスの神殿浄化に宿っている神の愛の熱意なのである。

この愛の熱意から、すべてが生じているとヨハネ福音書は語っている。すべては神の愛の熱意の結果である。我々がこの神の家で礼拝を守ることができるのも、父の愛の熱意による。父が愛するこの世のすべての者に対して、開かれている聖所。すべての者が滅びないことを求める愛の父。すべての者が永遠のいのちを持つことを求める愛の父。このお方の愛が宿っている場所は、単なる建物ではない。誰かが生活のために利用する場所ではない。父の愛を受け取るために、祈る場所である。この愛の場所を守るために、イエスは激しい行動に出られた。今日、覚えるマルティン・ルターもまた、この愛に食い尽くされたイエスを愛するがゆえに、激しい抗議の声を上げた。

マルティン・ルターが抗議した贖宥状、いわゆる免罪符として知られているものは、罪の赦しを得るものだと誤解されて、免罪符と呼ばれるようになった。正しくは「贖宥状」であり、贖いを宥すものである。当時、教会では、生きている間に犯した罪の贖いを生きている間にしなければならないと教えられていた。しかし、贖い切れない罪を持ったまま死んだ人は、煉獄という死後の場所において、罪の贖いをするのだと教えられていた。この煉獄における贖いを軽減するものとして、贖宥状が考え出され、人々はお金を出して贖宥状を買った。そのお金は、ローマの聖ペトロ大聖堂建設の資金となった。ルターは、この贖宥状の考え方に抗議して、九十五箇条の提題を掲示し、議論を呼びかけた。

その中の第37提題において、ルターはこう言っている。「真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書なしで神から彼に与えられた、キリストと教会とのすべての宝にあずかっている」と。つまり、お金を出して贖宥状を買う必要はないということである。「真実のキリスト者」とは、ただ信仰によってのみ与えられる神の恵みを信じている者のことである。だからこそ、「キリストと教会とのすべての宝にあずかっている」とルターは言うのである。この宝は無償で与えられる。信じている者に与えられている宝なのだから、信仰のみで十分であると、ルターは言っている。神の愛を受け取るのは、信仰のみだからである。それは死後のことではない。信じている今、受け取っているということである。

我々キリスト者は、死後の救いを待ち望んでいると思っているかもしれない。しかし、そうではない。信じるということは、終わりの日に約束されている救いを、今このとき受け取ることである。信じている者は、今救われている。今、終わりを生きている。今、無償で神の国に入っている。今、神の愛の中に生きている。ヨハネ福音書が終始語っているのは、今という現在における救いである。そしてまた、将来における救いを今生きるということである。信仰においては、現在は将来をうちに含んでいる。将来も現在をうちに含んでいる。信仰においては、現在も将来も一つである。信じている瞬間において、あなたは将来を生きている。すでに神の国に入っている。すでに復活している。すでに永遠のいのちを持っている。そのために、イエスは父の愛によって派遣されたのだ。

マルティン・ルターは、父の愛の熱意は信仰によってのみ受け取るものであることを再発見した。無償で与えられる救いを受け取る信仰。この信仰について「ローマの信徒への手紙序文」で、ルターはこう言っている。「しかし信仰は私たちのうちにおける神の働きである。この神の働きは私たちを変え、私たちを神によって新しく生まれさせ、古いアダムを殺して、私たちを、心、勇気、感覚、あらゆる力をもった別の人間とし、聖霊をもたらす」と。イエスの神殿浄化の行動は、我々のうちに働く神の働きを表しているとも言える。使徒パウロが言うように「あなたがたは神の聖所」であり、「あなたがたのうちに神の霊が住んでいる」のである。イエスはあなたのうちにご自身の体の聖所を起こすために、ご自身の体と血を与えてくださる。父の愛の熱意である聖なる霊があなたのうちに宿りますように。

祈ります。

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