「ロゴスの聖め」

2021年11月7日(全聖徒主日)
ヨハネによる福音書15章1節から17節

「すでに、あなたがたは清いものとして存在している、わたしがあなたがたに語ったロゴスによって」とイエスは言う。ブドウの幹につながっている枝を清めるのは、父なる神だと言う。さらに、イエスが語ったロゴスによって、あなたがたは清いものだと言う。父の聖めはロゴスの聖めだと言うのである。イエスの言葉、ロゴスは父の独り子であるイエスご自身だとヨハネ福音書は劈頭で語っていた。ロゴスが肉として生じたのがイエス・キリストであると。父の聖めは、イエス・キリストが語ったロゴスを通して行われている。つまり、イエスの言葉ロゴスを聞き、従う存在は父のもの、イエスのものとして聖められているのである。父のものとなる、イエスのものとなることは、聖なる者とされることである。それは、神ご自身の聖性に与ることで、神ご自身のお働きのために用いられることである。

この聖性に与ることが、洗礼を受けることによって始まる。今日、全聖徒主日に覚えている聖徒たちは、皆イエス・キリストと一つとされる洗礼に与った者たちである。天に召された聖徒たちだけではなく、地にある我々キリスト者も聖徒たちである。使徒パウロは、コリントやローマなどの信徒たちを「聖徒」ハギオスと呼んでいる。今日、我々が覚えているのは、我々自身も含めたキリストのものとされたすべての人々である。この人々は、キリストの言葉ロゴスを聞き続けることによって、神のものとされている。清い者、つまり純粋な者として生きていると言われるのである。キリストの言葉を聞き続けなければ、この清さを保つことはできない。

我々人間は、罪の肉をまとっているために、一度聞いただけでは清さを保つことはできない。それゆえに、毎週の礼拝に与り、神の言葉によって清められる必要がある。今日、共に覚えている先に父の許に召された人々は、キリストの言葉、ロゴスを聞き続けた人たちとしての聖徒である。使徒パウロも、そのような意味で、問題の多い教会員たちを聖徒と呼んでいる。たとえ、問題があろうとも、みことばを聞き続けて、みことばに留まる限り、我々は神のものとして、清められ、新たにされるのである。地上の生を終えるまで、みことばに聞き続けることで、我々はロゴスの聖めに与ることができるのである。

イエスが言う「わたしのうちに留まりなさい」という言葉は、わたしの言葉を聞き続けなさいという意味である。それはまた、「わたしの愛のうちに留まりなさい」とも言い換えられている。我々が聞くイエスの言葉、イエスのロゴスは、父なる神の愛の言葉である。いかに罪深くとも、世を愛し給うた父なる神の愛の言葉。独り子を世に与え給うた神の愛の言葉。このロゴスを聞き続けるならば、罪を犯してしまったとしてもなお、父の愛に包まれて、罪赦される。聖なる光の中で、自らの罪を認める者は、罪赦される。この繰り返しの中で、我々は終わりの日に向かって、神の国に向かって歩み続ける。キリストのロゴスは、我々を御国へ導く道そのものであり、ロゴスは我々を聖なる者とする真実のいのちである。

このような者となるのは、我々自身の力ではない。ロゴスの力である。ロゴスとの親和性を持つ者が、ロゴスの力に与る者である。親和性のない者は与ろうとしても与ることができない。ロゴスを、自らに語られている愛の言葉として聞くことができないからである。誰か他の人のことを語っていると思ってしまうからである。愛されているのは、あなた自身なのである。語りかけられているのは、あなたなのだ。父が聞いて欲しいのは、あなたの魂なのだ。あなたの魂が、ロゴスと一つとされるとき、あなたは聖なる者とされる。そして、必然的に実をもたらす者とされる。

我々が実をもたらさなければならないのではない。「わたしのうちに留まっている人は、わたしもまたその人のうちに留まっており、その人は豊かに実をもたらしている」とイエスが言う通りである。実をもたらさせるのはイエスであり、父なる神である。イエスのロゴスを聞いて、愛を受け取っている者は、愛をもたらす者として生きる。これが、イエスが語っていることである。従って、我々は自分で確認する必要はない。わたしは実をもたらしているだろうかと心配する必要はない。イエスがあなたを通して働いてくださる。父なる神があなたを用いてくださる。あなたは自分で確認する必要はない。ただ、みことばを聞き続けることに集中すべきなのだ。その結果は、ロゴスであるイエスご自身が実らせてくださる。

我々が確認しようとするとき、我々はイエスという幹から離れてしまう。自分で実をもたらそうとするとき、自分の力でもたらそうとするからである。そのとき、我々は神の聖めを離れて、自分で清くなろうとしてしまうのである。これが罪である。我々は自分を聖めることはできない。あくまで、神がわたしを神のものとしてくださるのだ。あくまで、ロゴスがわたしを聖めてくださるのだ。この聖なる出来事が洗礼によって開かれる。そのような意味において、我々は自らの洗礼を覚えなければならない。

罪を犯すということは、自分で清くなろうとすることであり、自分が神となることである。それゆえに、ルターが言ったように、我々は罪を犯したとき、不安に陥ったとき、「わたしは洗礼を受けているではないか」と思い起こさなければならない。それは、わたしが清くなるのではなく、神がわたしを聖めてくださるという地点に立ち帰ることである。そのとき、我々は罪を犯してもなお、罪赦されて、父の愛の中で聖められる。

先に天に召された聖徒たちも、我々と同じ罪人である。罪を犯してもなお、神の前にひれ伏して、みことばによって清められ続けた者たちである。彼らは自分の力で清く生きたのではない。純粋に生きたのではない。みことばが、彼らに純粋さを与えたのだ。あなたも、みことばを聞き続けることで、神に向かう純粋さを与えられる。純粋に、神だけを信頼して、歩み続けることができる。それが、先に逝きし聖徒たちが我々に語っていることである。彼らが証ししているのは、罪深い存在が、神の力によって神のものとして生かされたという神の御業である。彼らが、地上で生きている間、罪を犯さなかったのではない。罪は我々人間の肉につきまとっている。罪を逃れることができる人はいない。「義人はいない。一人だにいない」とパウロが言うとおりである。それにも関わらず、天には聖徒たちが溢れている。神のものとされた純粋な信仰者たちが溢れている。罪深くとも、純粋な信仰者として生きることができる。不純である我々が純粋にみことばに聞き続けるとき、我々はロゴスの聖性に与ることができるのだ。

天にあるあなたの愛する者たちは、このように地上を生きた。あなたの愛する者たちが生きたように、いや生かされたように、あなたにも生きる道が開かれている。ロゴスの聖めに与っているあなたは、必ずや愛に包まれ、天の御国に入る。互いを愛する愛に導かれて、天の御国に入る。そのために、キリストは、そして、父なる神は、あなたを愛してくださった。あなたがたが、互いを愛する者として生きるようにと、愛で包んでくださる。何ものであろうとも「わたしたちを引き離すことはできないであろう、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から」と使徒パウロがローマの信徒への手紙8章39節で語るように、神の愛は強い。罪人を神のもの、聖なる者としてくださるほどに強い。神の強き力によって、我々は皆聖徒なのである。イエスの言葉によって、我々は互いを愛する者なのである。今、現れているか否かではなく、ただみことばが実現してくださる世界が開かれていると信じるのである。そのとき、我々は天にある聖徒たちと同じく、神を讃美するであろう。

聖徒たちの讃美に合わせて、我々もキリスト・イエスの十字架と復活を誉め讃えよう。キリストはご自身の体と血を、我々に与えてくださり、「わたしの愛のうちに留まりなさい」と語りかけてくださる。天にあるあなたの愛する者と共に、キリストの体と血に与って、聖なる信仰のうちに生きて行こう。みことばを聞き続けるあなたは、キリストのうちに留まる枝として生きることができる。

祈ります。

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