「欠乏からの信仰」

2021年11月14日(聖霊降臨後第25主日)
マルコによる福音書12章41節から44節

「彼女は投げた、彼女の生活全体を」とイエスは言う。彼女が投げたのは小さなコイン二枚ではなかったのか。しかも、二枚でようやく使えるほどの小さなコインであった。それなのに、「全生活」を投げたとイエスは言う。どうしてなのか。

それが生活費の最後のコインだったという意味で理解されて訳されているが、生活費の問題なのか。お金の多寡の問題なのか。もちろん、他の人たちは「彼らに溢れているものから投げているが、彼女は彼女の欠乏から投げている」とも言われているので、投げたお金の多寡について、イエスが語っているかのようである。しかし、「欠乏から投げている」という言葉が指し示しているのは、「投げる」ことの根源に何があるかということである。「溢れている」ということは、溢れてきたうわずみであり、余剰である。「欠乏」ということは、表面的うわずみもなく、真実に何もないことであり、余剰とは正反対である。ここには、「投げる」こと、つまり神に献げることの起源の違いが語られている。

この箇所では、新共同訳が「入れる」と訳す言葉バッロー「投げる」が7回使われている。7という素数は完全性を表すと言われるが、「投げる」ということの完全な意味を語っている箇所だと考えるべきであろう。「投げる」ということは、表面に現れていて、自分で好きに使うことができるものを「投げる」のか、あるいは自分では好きに使えるものがないものを「投げる」のか。好きに使えるものがない状態を「欠乏」と呼んでいるのだから、彼女は何を投げたのか。現れとしては、二枚のコインである。それは欠乏の最たるものであり、溢れるどころではないということを表している。ということは、彼女は底の底において「投げた」ということである。つまり、自分自身を投げたということである。

他の人たちは、自分自身の上にお金を積み上げ、その上に溢れるものを「投げる」。彼女は、自分自身しかない状態で「投げる」。それが、「彼女の欠乏から投げた」とイエスが言う事柄である。

「投げる」という事柄が如何なることであるかをイエスは語っておられる。それは根源的な自分自身を「投げる」ことなのだと。彼女が投げたのは、自分自身である。彼女が投げたのは、お金ではなく、彼女の魂である。「全生活」と言われているのは、彼女の魂のことである。そうであれば、「投げる」という行為は、お金や物を「投げる」ということではなく、「委ねる」ということである。彼女が神に委ねたのは彼女の根源的魂だとイエスはおっしゃっているのである。

お金がある者たちは委ねるような「投げる」行為はできない。彼らの「投げる」行為は、自分の余剰を神に与えるような行為。「欠乏から投げた」彼女の行為は、神に委ねる行為。神に献金を献げるということは、自分自身の魂を神に委ねることなのである。それゆえに、「すべての人たちよりも多くのものを投げた」とイエスは言うのである。一番少ないコインを二枚投げた彼女が「すべての人たちよりも多くのものを投げた」ということは、金額の多寡が逆転しているのだから、金額の問題ではないことは明らかである。わたしという魂をお金に比べることはできない。彼女は、彼女の生活全体を神に委ねた。それが彼女の二枚のコインとして現れている彼女の魂、彼女の信仰なのである。

最後のコイン二枚を投げなくても良いではないかと我々は考えてしまう。田川健三が言うように、エルサレムの神殿という搾取制度の問題点を語っている出来事だと受け止めることもできる。そのような搾取制度として機能している神殿での献金であったとしてもなお、彼女は自分の魂を神に委ねるためにここに来たのだ。そのような搾取制度として神殿が経営されていたとしても、彼女は自分の全生活を神に委ねたのである。これが彼女の二枚のコイン献金の根源にある彼女の信仰だとイエスは認めた。信仰とは、欠乏から生じるものであって、溢れるものから生じるものではないということである。我々は余剰で信じるのではない。余暇で信じるのではない。欠乏している自分自身において信じるのである。

信じるということは、この世の現実を超えた出来事である。信じる者は、この世の現実に捕らわれることはない。この世の現実がどのようであろうとも、信じる者はこの世の現実に流されることはない。この世の現実の中で、排除されていようとも、この世を超えたところで生きる力をいただいている。食べ物がなく、死んで、この世から離れたとしても、生きている。根源的なところで、その人の魂は神に委ねられているからである。

この世の現実を超えているということは、余剰ということではなく、次元が違うということなのである。多くの人が溢れるものから「投げている」のは、余剰でしかない。自分とは関わりないものを投げている。一方で、彼女が投げているのは、彼女の現実にある欠乏から生じた信仰によっている。それゆえに、自分自身の根源から投げている。欠乏からの信仰は、何もないところから、何者でもない者として信じることである。溢れているものから投げている人は、神に与えることができる者として投げている。その人は、自分を神と対等な者のように考えている。それゆえに、自分自身を神に委ねることはない。自分自身の根源には関心がない。自分自身の根源は自分であると考える。それゆえに、自分は神に与えることができると考えている。もちろん、溢れているものは神の恵みだとは思っているであろう。しかし、自分が良い人間だから神は恵みを与えてくれたと思っている。こうして、人間は恵みを自分の成果と考えるようになる。これが「溢れているものから投げる」人たちの姿なのである。

反対に、「欠乏から投げる」女の信仰は「欠乏」を根源的に受け止めた上での委ねである。自分には力はなく、人間は助けてくれず、むしろ律法学者たちから搾取されている。そのような欠乏しかない状態において、人は神に委ねる信仰を起こされる。豊かに暮らしている人間には、このような信仰は起こされない。その人は必要としていないからである、神を。神は、必要としている者に信仰を与えてくださる。欠乏している者は、必要としている者だからである。必要なのは、裏切らず、搾取せず、守ってくださるお方であることをその人は知っている。それゆえに、人間が自分をどう見ているかは問題ではない。自分が周りにどのように思われようとも、二枚のコイン、二枚でしか価値がないコインを、最小のコインを投げる。自分自身の魂を投げる。自分の根源的生を神に投げる。彼女が神に投げた彼女の魂は、神の許へ向かい、神の御顔を仰いでいる。ただ、神にのみ向かう彼女の信仰をイエスは認めてくださった。彼女の欠乏からの信仰を認めてくださった。

彼女の生活が、この後、豊かになったかと言えば、それは分からない。何も変わらないかもしれない。それでも、彼女には自分を投げる相手がいる。神が、彼女の魂の叫びを聞いてくださる。欠乏から投げる魂は、叫んでいる。神に向かって、叫んでいる。この叫びが神に届かないはずはない。我々の叫びが、この女と同じように、欠乏からの信仰に促された叫びであるならば、あなたはただ一人の神を持っている。あなたの魂を配慮してくださるお方を持っている。あなたの魂が安らぎを得る場所を、あなたは持っている。あなた自身に、欠乏の中で生きる力を与える根源的お方を、あなたは知っている。これが信仰というものである。

信仰によって、あなたは物質的豊かさから解放され、根源的世界を生きる者とされる。欠乏からの信仰によって、あなたの全生活を神に委ねる生き方ができるようにと、イエスはあなたにご自身を与えてくださった。イエスの十字架はイエスのすべてをあなたに与えてくださった出来事。あなたは十字架において、あなたのすべてを持っている。最大の欠乏である十字架の欠乏が信仰を起こし、起こされた信仰があなたの欠乏を豊かなものにする。なぜなら、あなたの信仰が、神とキリストを豊かに富むお方として信じるからである。すべてを与えてくださった十字架を仰いで、勇気をもって生きていこう。

祈ります。

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