「天上の決定」

2021年11月28日(降誕節第1主日)
ルカによる福音書19章28節-40節

「誉め讃えられてしまっている方、来ている方、主の御名における王。天における平和と栄光、いと高きところにおいて」と群衆は歌う。すでに決定している天における「平和」と「栄光」に包まれて来ているお方イエスを受け入れる群衆。彼らの叫びは、天において決定していることを叫んでいる。これを誰も変えることはできないと、イエスは言う。天上の決定が、地の上で見えるようになった出来事。それが、イエスのエルサレム入城。この入城において、イエスはご自身の十字架を見据えている。このときのためにわたしはやってきたと見据えている。このときは、イエスの誕生において、すでに決定してしまっていたこと。イエスの降誕は、このときを目指して生じた。今、そのときが来たったとイエスは見ている。ただ、群衆はそれとは知らずに叫んでいる。この違いは、時間的ずれだけではない。無意識の叫びの根底に天上の決定が存在していると見るイエスを群衆は理解していない。

天上において決定していても、地上に生きる人間には理解されず、認識もされない。群衆は自ら認識してはいない。ただ、叫ばずにはおられないように迫られて、叫んでいる。この叫びは、真実を叫んでいるにも関わらず、彼らの魂とは一致してはいない。それゆえに、イエスの十字架を前にして、そんなはずではなかったと思ってしまう。無意識の覆いが取り除かれるには、イエスの復活を待つしかない。そのときまでは、イエスの降誕の意味は隠れたままである。

我々が待降節第1主日に聞いているのは、イエスの降誕の意味であり、群衆の無意識の叫びである。この結末が如何なるものであるかを知っている後の時代の我々は群衆の無理解を思う。しかし、我々もまた、彼らの時代に生きていたならば同じだった。イエスの復活を経た後でなければ、イエスの降誕もエルサレム入城も理解されることはない。

それでもなお、イエスは群衆の叫びが天上において決定していることだと言う。それゆえに、彼らの叫びを止めることはできないのだと言う。たとえ、彼らが黙ったとしても「石たちが叫ぶであろう」と言う。叫ぶはずのない、意志のない「石たち」が叫ぶとすれば、その叫びは石たちの意志において叫ばれているのではない。同じように、群衆たちの意志によって叫ばれているのではないと、イエスは言う。その叫びを止めることは、神の意志の実行を止めることである。神の意志を拒否することであるとイエスは言う。それを求めるファリサイ派の人たちは神の意志を理解せず、止めようとしているということである。彼らは、何故に、この叫びを止めようとするのか。神の意志を拒否しようとするのか。群衆の叫びが意味する「天上の決定」を認めないのは何故なのか。

自分たちが認めていないからだろうか。しかし、彼らもまた天の神の意志を実行しようとしているのではないのか。神を誉め讃えるのではないのか。救いが天からやって来ると信じているのではないのか。それなのに、群衆の叫びに賛同できないのは何故か。「来たるべきお方」がイエスであるはずはないと考えているからである。自分たちの待ち望むお方は、イエスではないと拒否しているからである。イエスは彼らの立場を批判していた。批判されることで、彼らはイエスを受け入れることができなくなった。彼らの立場が守られるならば、イエスを受け入れたであろう。自分たちの立場、地位を保全するために、救い主が来たるとでも彼らは考えているのであろうか。救い主は、何のために来てくださるのか。すべてを新しくするためではないのか。そうであれば、自分たちの地位を守ろうとする人たちにとっては救いではないと思えてしまう。それゆえに、「天上の決定」を止めようとする。それがファリサイ派の人たちの思いである。

反対に、地位のない、貧しい者たちにとっては、新たにされる救いは、それまでの世界が転倒することである。自分たちを縛っていた世界から解放されること、縛っていた世界が転覆されることである。解放は、既存の価値の無効化であり、既得権益を持つ者たちにとっては破壊であろうとも、搾取されていた者たちにとっては解放である。構築してきたものが壊されると思う人間と、自分たちを縛ってきたものから解放されると思う人間との違い。終わりと始まりの違い。破壊と脱-構築の違い。解放とは、構築されていたものからの脱出である。それゆえに、構築してきた者たちは抵抗する。救い主による解放に抵抗する。それがファリサイ派の人たちの在り方である。

人間的抵抗にも関わらず、群衆が叫ぶように、天上の決定は覆すことはできない。天においては、平和が確立している。天においては、神の輝きである栄光が燦然と輝いている。この輝きを誉め讃える群衆の叫び、大いなる声は消すことはできない。彼らのうちに働いている神が叫ばせている。彼らの無意識の底に在る救いへの渇望は、神が満たしておられる。神によって叫ぶとは言え、意志のない石さえも叫ぶとすれば、その叫びは神ご自身の叫びではないのか。神ご自身が人間に叫んでいるのではないのか。わたしの栄光は天上において確立していると。それゆえ、地上においても確立するのだと。

天上の決定は、子ロバの出来事においても起こっている。弟子たちが子ロバを見出すのは、神によって導かれているから。子ロバを解放することを許されることは、天上において決定しているがゆえ。子ロバは神に必要とされている。必要を満たすために、神によって解放され、用いられる。イエスもまた、子ロバと同じように、神によって死から解放され、神に用いられるお方。子ロバの解放は、イエスを縛るであろう死からの解放を象徴している。イエスは、子ロバと同じように、解放されることを生きる。エルサレムにおいて、十字架に架けられるとしても、神がすでに天上において決定している通りに、解放される。解放されるために、エルサレムに入城する。解放されるために、地上に派遣されるイエス。神による解放を人間たちに宣教するために、イエスは地上に派遣された。飼い葉桶に生まれ給うお方は、既存の価値の中で生まれるのではない。既存の価値とは正反対のところで生まれる。家ではなく、馬小屋で。家庭ではなく、旅の途上で。イエスの誕生は、既存の価値を越えたところで起こる。そのようなお方が、子ロバに乗ってエルサレムに入っていく。馬ではなく、子ロバに乗って。既存の価値では測ることができない神の価値において、エルサレムに入っていく。天上の決定は、地上の価値を覆す決定である、と入って行く。

エルサレムは、地上の価値を象徴する場所。地上の価値によって人々を縛っていたものの象徴。強固な城壁によって、自分たちを守っていた既得権益の象徴。民の祈りを神が聞き給う場所として建てられたエルサレムが、民を搾取するシステムとなっていた。この場所に入るイエスは、内部から破壊する。人間の内部から破壊する。彼らが新たなる生へと生まれるために破壊する。構築されたものからの脱出のために、新しい出エジプトのために、イエスはエルサレムに入る。クリスマスに生まれ給うお方は、脱-構築するために、地上に生まれ給う。馬小屋に生まれ給う。飼い葉桶に生まれ給う。このお方こそ、天上の決定における救い主、キリスト。

キリストの降誕を待ち望む我々は、自らが脱-構築されるために、待ち望む。群衆と共に、我々のうちに無意識の叫びが起こるであろう。知らず知らずのうちに縛り付けられていたのだと。天上における決定が、我々を解放するのだと。神の輝きを確かに見るために、我々はキリストを迎えるのだと。繰り返し、繰り返し、叫ばれてきた来たるべきお方への讃美を、我々の魂もまた叫んでいる。「誉め讃えられてしまっている方、来ている方、主の御名における王」が来られる。「天における平和と栄光」は「いと高きところに」輝いている。「天上の決定」を覆すことはできない。ただ、素直に受け入れ、神の意志に従う道を歩いて行こう。エルサレムに入城するイエスは、子ロバのように、あなたを解放してくださる。縛られていた世界から新たな世界へ。

祈ります。

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