「神の救い」

2021年12月5日(待降節第2主日)
ルカによる福音書3章1節-6節

「確かに見るであろう、すべての肉は、神の救いを」とイザヤ書40章の言葉が引用されている。イザヤ書40章以降は、第二イザヤと呼ばれるイザヤの後継者が書いた。バビロン捕囚となっておよそ50年の後、第二イザヤは神ヤーウェの言葉を聞いた。「ナハムー、ナハムー」と神ヤーウェは語った。「慰めよ、慰めよ」という意味である。ナハムーと呼ぶ神ヤーウェの声を聴いた第二イザヤは、バビロン捕囚からの解放の時を預言した。神ヤーウェが天から慰めを送り、イスラエルの民を慰め励ます言葉を聴いた。不自由な生からの解放を歌った第二イザヤ。このバビロン捕囚からの解放より450年後、イスラエルはローマの属州となった。再び、ローマ帝国の支配の下で苦しい生活を強いられることとなった。

そのような中で、多くの自称メシアが現れては消えていった。洗礼者ヨハネが現れたときにも、人々はまた消えていく自称メシアかと思ったであろう。しかし、洗礼者ヨハネは最初から消え行く「声」として生きた。第二イザヤが預言した「荒野の声」として生きた。洗礼者ヨハネは、自らが声として働くことを良しとした。声であるヨハネは、新しいことを始めた。ただ一度の洗礼を宣教したことである。しかも、悔い改めを求める宣言と共に宣教した。二度と同じことを繰り返さないという覚悟を民に求めたヨハネ。彼の信仰姿勢は、イエス・キリストを迎える備えとなった。ただし、イエスがキリストとして迎えられるためには、一人ひとりの信仰が起こされなければならない。第二イザヤが語ったように、「ねじ曲がったものがまっすぐに存在するであろう」未来、「でこぼこのものが滑らかへと」存在するであろう未来。この未来へ向けて、洗礼者ヨハネは民を導いた。まっすぐに神を迎えるようにと導いた。

谷が満たされ、山と丘が低くされる未来は、平らな地においてすべての肉が神の救いを「確かに見るであろう」未来だと第二イザヤは語っている。洗礼者ヨハネは「神の救い」を確かに見るであろう民が起こされるための準備を行った。荒野の中で、声として生き、準備した。彼の準備があってこそ、イエスに従う者が起こされた。馬小屋で、飼い葉桶の中に生まれたイエスは、一般的価値とは正反対のところに生まれた。イエスの誕生は、「神の救い」がこの世の価値とは正反対のところに隠れていることを語っている。洗礼者ヨハネも、この世の価値とは正反対のところに存在する神の救いを宣べ伝えた。

新しいことを宣べ伝えるためには、すべてを捨てる必要がある。それゆえに、洗礼者ヨハネは荒野で宣教した。何もないところから始めた。すべてを捨てて始めた。神の救いは、何もないところに隠れている。人間的な思惑や策略が無効になるようなところに隠れている。それを見出すのは、ねじ曲がった心では不可能である。でこぼこな心では不可能である。思い上がっている者では無理。低められていても無理。すべての肉なる人間が、裸の被造物として神の前に立つとき、山も丘も谷もなく、ねじ曲がりもでこぼこも無くなる。そのような単純な人間存在としての在り方を洗礼者ヨハネは民に求めた。

我々は、如何なる者として神を迎えるのか。如何なる存在として、神の救いに与るのか。洗礼者ヨハネは一人ひとりが神の前に謙虚に低く生きることを求めた。神の救いは、神のみが与えることができる救いだと宣教した。まっすぐに神に向かい、滑らかな心で神を迎える。そのような存在は、与えられる救いを素直に受け取るであろう。そこにおいてこそ、真実に神の救いが喜び受け入れられている。我々の価値が神の救いの条件ではない。我々の無価値が救いの条件なのでもない。我々が自らの価値や無価値に頼っている限り、我々は神から離れている。神の救いから離れている。無価値である者も、価値ある者も、何者でもないというところに立つことはない。我々は、ただ神に造られた存在だということにおいて、神の被造物として神の前に立つ。この世の価値を離れたところで、神の前に立つ。そのとき、我々は神の救いを受け入れるであろう。ただ、神の憐れみによって来たる救いを受け入れるであろう。このようなところに立たせるために、洗礼者ヨハネは来たった。イエス・キリストに先立って来たった。

洗礼者ヨハネは、声である。声は言葉を伝える。声は消えても、声が伝えた言葉は残る。言葉は我々のうちに残り、幾たびも我々を励ます。終わりの日に向かって歩む力を与えて、歩ませる。声は、言葉を伝えて消えるとしても、言葉が残る。洗礼者ヨハネが第二イザヤの言葉に見た神の救いが確かに見えるように、言葉が残る。言葉が残るために、声は働く。すべての者が聴いているわけではないとしても、何もない荒野において、声は言葉を伝えた。受け取った者たちが、言葉を伝え合い、神の言葉として残ってきた。声は、言葉を神の言葉として聴く民の心の耳に聞こえてくる。神の声として、聞こえてくる。そのとき、洗礼者ヨハネは自らの使命を言葉と共に果たしている。語りかける声として、言葉を伝える洗礼者ヨハネ。この人のうちに宿った神の言葉は、語りかける声として人々に響いた。神の肉声として働いた洗礼者ヨハネ。彼を用いた神は、救いを見せてくださった。未来の救いを、ヨハネに見せてくださった。未来の救いを見て、ヨハネは宣教した。神の救いを「確かに見るであろう」人々が起こされる未来。それゆえに、洗礼者ヨハネは宣教した。未来があるがゆえに、宣教した。

この人の宣教は「神の救い」の力による。「神の救い」が宣教を可能とした力。「神の救い」は力として働く。「神の救い」を見た人は力を得て、働く。洗礼者ヨハネは、「神の救い」によって促され、働いた。「神の救い」がヨハネを押し出した。何もない荒野へ。何者でもないものとして生きるようにと押し出した。彼は、人々を押し出した、何者でもない者として生きるようにと。一人ひとりのところへ、神を迎える小道が、公道のようにまっすぐに延びるようにと宣教した。

彼が望み見た未来は、イエス・キリストによって来たった。イエス・キリストの降誕はその始まり、我々が待ち望む未来の始まり。我々の救いの始まり。それがイエス・キリストの降誕である。我々は、ねじ曲がった心をまっすぐに神に向ける。我々は、でこぼこの心を滑らかにして神に向かう。我々は、自らの思い上がりを低くして神を迎える。我々は、自らの低さから神に向けて起き上がる。すべての肉なる人間が同じ地平に立つ未来を望み見て、我々は生きて行く。御子イエス・キリストを迎えて、同じ地平に立つ者として、神の前にひれ伏す。

我々は、如何なる者であろうとも、神の被造物。地位があろうと無かろうと、神の被造物。罪深く、愚かであろうと神の被造物。荒れた心であろうと神の被造物。すべての肉は、神に造られた者として等しい存在。被造性において、我々は誰にも比べることができない存在。それぞれに、造られた形がある。それぞれに、相応しく生きるようにと造られた形がある。その道が、まっすぐに神を迎えるようにと備えていく。キリストの降誕を待ち望む我々の道は、まっすぐに、滑らかに、キリストが来たる道となる。愚か者であろうと、罪深い存在であろうと、キリストは来てくださると信じる者は、まっすぐに滑らかな道とされる。神があなたをまっすぐにしてくださる。神があなたを滑らかにしてくださる。それこそが「神の救い」。あなたの道に、「神の救い」が現れるであろう。あなたの未来は、ヨハネが見た未来。ヨハネが宣べ伝えた未来。この未来に向かって、歩み出そう。

キリストがご自身を与えてくださる聖餐を通して、我々は神の救いを見るであろう。あなたの目で。あなたの口で。あなたののどで。確かに見るであろう。神の救いは、あなたのうちに宿ってくださる。あなたは救われるべき者。救いの喜びを生きるべき者。救いの道をまっすぐに、滑らかにしてくださる神の御業に感謝しよう。我々は、神の被造物、裸の被造物。何もない、何者でもないあなたのところに神の救いは現れる。あなたが確かに見る者でありますように。

祈ります。

 

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