「恵みの発見」

2021年12月12日(待降節第3主日)
ルカによる福音書1章26節-38節

「何故なら、あなたは見出したから、恵みを、神の前で」と天使ガブリエルは言う。ここで、天使が言う言葉は過去形である。マリアが、ガブリエルの挨拶の言葉に困惑していると、天使は過去形で語った。ということは、マリアは過去において「恵みを見出した」ということになる。過去に見出した恵みに従って、「恐れるな」と天使は語ったのであろうか。マリアは、いつ神の前で恵みを見出したのであろうか。それは分からない。天使がそう言ったということは、神はご存知だということである。それゆえに、これから彼女が経験するであろうことも恵みなのだと前置きして、天使は告げる。「見よ、身ごもるであろう、胎のうちに。そして、生むであろう、息子を。そして、あなたは呼ぶであろう、彼の名をイエスと」。マリアに起こるであろう未来の出来事が告げられた。それは「神の前で、恵みを見出した」あなたに与えられる恵みなのだという意味であろうか。

マリアという名は「頑強な」という意味であり、また「神の贈り物」という意味だとも言われる。一方で、「苦さ」という意味だと言う人もいる。マリアという名は、出エジプト記に出てくるモーセの姉ミリアムのギリシア語名だからである。ヘブライ語のミリアムは「苦さ」という意味であるとすれば、マリアは「苦さ」を「神の贈り物」として引き受ける「頑強さ」を持つ女性だということになるであろう。それが「神の前で、恵みを見出した」と言われている事柄ではないか。

彼女は最後にこう言っている。「ご覧ください。主の女奴隷。わたしに生じますように、あなたの語られた言葉に従って」と。マリアは、神が語られた言葉に従って生きている。それゆえに、天使を遣わした神の語られた言葉に従って、わたしに生じるのは必然であると語っていることになる。つまり、「神の前で、恵みを見出した」という過去形が語っているのは、マリアの生き方が恵みを見出す生き方だということである。彼女は「苦さ」を引き受けて生きてきた。わたしはご主人である神の女奴隷であり、その主が語られた言葉に従って、わたしはどのようなことでも生きることになると表明しているのである。たとえそれが「苦さ」であろうとも、「神の贈り物」として引き受け、生きるということである。そのとき、すべては見出した恵みのように未来へと開かれるのである。

マリアには苦さの経験がどれほどあったのかは分からない。まだ若い女性である。16歳くらいであろうと思われる。現代の16歳と比べることはできないが、16年の間に、さまざまな「苦さ」を経験したのであろうか。そのたびに、「わたしは主の女奴隷」との信仰を深めて行ったのかも知れない。そして、大いなる神の計画に用いられた。ここで「わたしは主の女奴隷」なのだから、「あなたが語られた言葉に従って、わたしに生じますように」と答えている言葉は、若い女性としては驚くほど深い信仰である。もちろん、信仰は年齢ではない。経験年数でもない。神から与えられるのだから、いくつであろうとも信仰は信仰である。この信仰がマリアの中で、生きて働いているがゆえに、彼女は「苦さ」を引き受ける生を生きて行くことができたのである。如何なるものも「神の贈り物」だと信じる「頑強な」信仰に包まれて、生きて行ったマリア。彼女の信仰が強い信仰だったということではなく、彼女のうちに働いている神の信仰が強く働いたのである。

マリアが発見した恵みというものは、常に発見されるように目の前に現れてくると言っても良いであろう。その恵みを発見するのは、神の働きである信仰によって目が開かれるからである。開かれた目を通して入ってくるあらゆることが恵みである。神が見せてくださるものが恵みである。我々人間が「これを恵みと思おう」ということではない。「これを恵みなんだと考えれば、それで恵みになるのだ」ということでもない。目の前の出来事を素直に受け入れるのが信仰である。その信仰を与えたのは神である。それゆえに、「神の前で」「恵みをあなたは発見した」と天使は言うのである。

「神の前で」とは、起こってくる出来事の傍らに神がおられるということである。出来事は、いつでも神の前で起こっている。神の前で起こらない出来事はない。すべては神が支配しておられる。だからこそ、「苦さ」を引き受けるとき、人は「恵み」を発見することができる。反対に、幸いを求める心には、「苦さ」を避けようとする心が潜んでもいる。そのような心が起こることは当然である。人間は、できれば「苦さ」を避けたい。自分のところに来るなと逃げ出したい。それでも追ってくる出来事がある。それはやはり恵みである。苦いとしても恵みである。

この「苦さ」に向き合ってきたマリアのところに天使は現れる。神の意志を伝えるために現れる。「喜べ、恵まれてしまっている者。主が、あなたと共に」と。これからマリアが引き受けなければならない受胎という出来事を「喜べ」と言う。ヨセフには、不貞を疑われるかもしれない妊娠を「喜べ」と言う。それが「恵まれてしまっている者」なのか。あまりに理不尽なことを押しつけられているように感じたであろうマリア。しかし、最後に天使は言う。「主が、あなたと共に」と。マリアは一人ではない。一人で引き受けるのではない。主なる神がマリアと共にいて、引き受ける力をくださる。それが、マリアに与えられている恵み。まさに彼女は恵まれてしまっている者である。主が共にいてくださるのだと、マリアは信仰を起こされた。共にいて、わたしに起こるすべてのことを導いてくださると信じたマリア。彼女は、このように恵みを見出していた。

我々は恵みを発見しているのであろうか。苦難や困難、災いや悲しみ、さまざまな出来事が起こる中で恵みを発見しているであろうか。苦しみを恵まれていると言ったパウロは、自分が経験している苦しみは恵みだと言うのである。その苦しみを引き受けることが、キリストの御受難が示している神の意志だとパウロは信じた。我々が避けたい苦難をキリストは引き受け給うた。我々が逃げ出したい痛みをキリストは引き受け給うた。我々が見たくない死をキリストは死に給うた。それが神の意志だと負い給うた。このお方がマリアのうちに宿った胎の実、キリストである。キリストの十字架が指し示しているのは、恵みの発見である。我々が探してもいないところにある恵み。我々が求めてもいないことに潜む恵み。我々が被らねばならないものに隠れている恵み。キリストの十字架は、この恵みを指し示している。

我々は恵みを探す。しかし、恵みは目の前にある。目の前の「苦さ」の中にある。「苦さ」が「恵み」だとキリストは示し給う。恵みを発見するのは、神の意志を純粋に受け取る信仰。恵みを発見するのは、神の意志に素直に従う信仰。恵みを発見するのは、ありのままの自分を神に投げ出す信仰。どうにもしようのない哀れな罪人を憐れんでくださるお方に自分を投げ入れる者が恵みを発見する。如何なるものも神の恵み。こんなはずではなかったと思っても、神の恵み。どうしてこうなったのかと思っても、神の恵み。誰かの所為にしたいようなことも、神の恵み。マリアは、これらのことをすべて神の前で祈りつつ、受け入れて行ったのであろう。神の恵みは、発見されるようにとそこに存在していると受け入れて行ったのであろう。このような信仰が、恵みを発見する。神があなたのうちに起こして下さった信仰が、恵みを発見する。恵みだと思い込むのではない。思い込まなくても、恵みは恵みである。そこにあるのだ。

待降節第3主日、マリアの日に、我々は今一度マリアの信仰を思い起こして、わたしに与えられている信仰を顧みてみよう。マリアのように素直に、純粋に、ありのままに物事を見る目が開かれますように、祈りつつ、過ごしていきたい。クリスマスの日に生まれ給うみどりごが、このわたしの目を開いてくださるように。飼い葉桶に生まれ給うみどりごが、このわたしに示してくださるように。馬小屋で生まれ給うみどりごが、このわたしに光を照らしてくださるように。クリスマスのみどりごの恵みが、あなたの日々の上に、光を注いでくださるように。

祈ります。

 

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