「天使の知らせ」

2021年12月24日(クリスマス聖餐礼拝)
ルカによる福音書2章1節-20節

「主の天使が彼らの上に立った。そして、主の栄光が彼らを巡り照らした。」と言われている。イザヤ書9章においても、「闇の中で歩いている民は見てしまっている、大いなる光を」と言われている。「闇」の中で輝く「光」が語られている。羊飼いたちに天使が現れたときにも、「主の栄光」の光が羊飼いたちを巡り照らした。彼らは夜の闇の中で、野宿して、羊を見守っていた。闇の中で輝くのは「光」である。天使の知らせには「光」が伴う。どうしてなのか。天使の知らせは「闇」に「光」を与える知らせだからである。

天地創造の始めにも「闇」が地の面を覆っていた。神は「光あれ」と言われて、「光」が存在するようになった。「闇」は混沌であり、誰にも何も見えない世界。「闇」の中では自分自身も分からない。聖書は「闇」を罪の姿として語っている。自分が隠れる「闇」、他者を閉じ込める「闇」。それが我々人間の罪の姿である。それゆえに、ありのままで良いということはない。ありのままであるのは「闇」のままであること。「光」に照らされて、「闇」に隠れていた自分を認めるとき、ありのままで良いとは誰も思わない。ありのままでは罪のままである。罪のままであるならば、「光」の中に出てくることはない。すべてをあからさまに見せることはない。自分の罪も、自分の悪しき姿も、悪しき心も、誰にも見せないことが「闇」である。そのような姿が自分自身であるということを認めるとき、我々は「光」の中に出てくる。神の許に出てくる。光の中で生きるということは、隠れようとする自分を隠さずに、ありのままの自分では良くはないのだと認めることである。その時、我々は「光」の子とされていく。

羊飼いたちは、確かに人々から蔑まれていた。彼らは、夜中に家族を守ることができない仕事をしていた。彼らが蔑まれていたから、彼らは義しいというわけではない。蔑まれているとき、我々は蔑む相手を否定する。批判する相手を拒否する。光の中に出てくるようにとわたしのありのままの罪の姿を照らす神を拒否する。そのとき、我々は「闇」である。「光」に照らされていながら「闇」なのである。羊飼いたちも、自分たちが置かれた状況に苦しんでいたであろう。誰も、自分たちの苦しみを分かってくれないと思ったであろう。そのようなとき、彼らは自分たちを理解しない相手を否定している。そのような姿も「闇」である。

イザヤが歌う「闇の中を歩いている民」は、苦難の中を歩いているだけではなく、他者の所為にしている民でもある。彼らが闇の中を歩かなければならないだけではない。彼ら自身が、闇を選択しているのである、他者の所為にしながら。イザヤが歌う民の姿は、「光」を拒否する姿である。それでもなお、神の大いなる光は民を照らす。彼らが自らの罪を認めるようにと照らす。神はご自分の民が「闇」の中を歩いて欲しくないのだ。「光」の中を歩いて欲しい。自分の罪を認めて、悔い改めて、神の許で生きて欲しい。それがイザヤが聴いた神の言葉である。

大いなる光によって照らしてくださるお方は、「闇」の中で呻吟している人々を照らす。呻吟するということは、与えられた苦しみの中でうめいていることである。そこから抜け出すには、苦しみを引き受けて生きる必要がある。苦しみを与える他者を否定しても、自分の力にはならない。苦しみを与える者の哀れさを思いつつも、なお自分自身を問うことが必要なのである。そのために、あなたの姿はこのようだと神は我々の真実の姿を照らしてくださる。

羊飼いたちを愛する神は、彼らの呻吟する心を照らしてくださった。彼らは自分たちに語りかけた天使の言葉を確かめに行こうと立ち上がった。このとき、彼らは自分たちを巡り照らした光を受け入れた。行ったところで、見つかるはずはないと思い、こんな無理なことを言われても、できるはずがないと思うとき、彼らは立ち上がることはできない。自分たちに語られた言葉に素直に従うとき、立ち上がることができた。彼らが探しに行こうと思ったのは、天使が告げた神の言葉を素直に受け入れたからである。自分たちの苦しみを理解してくださるお方として受け入れたからである。自分自身が「闇」の中に沈んでいたことを知ったからである。ここから抜け出すには、立ち上がるしかないと立ち上がった。ありのままに隠れていてはダメなのだと立ち上がった。自分の罪を認めて、立ち上がる羊飼いたち。

彼らは、どこを探せば良いのか、分かっていた。彼らへの天使の知らせは「飼い葉桶」、「布にくるまれて横たわっているみどりご」というイメージだけ。しかし、それこそが彼ら自身の罪の姿であった。何故なら、最も低くされている自分たちは飼い葉桶のようだから。何もできない自分たちは布にくるまれて、身動きできないようにされていると思っていた。仕方ないから、ここにいるしかないと思っていた。それなのに、彼らは天使の知らせを聞いて、自分たちと同じ姿のみどりごを探しに行く。そこに何があるのかを探しに行く。彼ら自身を探しに行く。これが天使の知らせ。これが神が彼らに命じる行動。これがクリスマスの喜びを見出す歩み。立ち上がって、天使が語った言葉を探しに行く羊飼いたち。彼らがどれだけ探し回ったのかは分からない。しかし、彼らはついに見つけるまで、探し回った。こうして、彼らは、光の中に入っていった。飼い葉桶で布にくるまれているみどりごの光の中に入っていった。飼い葉桶の中に、羊飼いたちを照らす光が横たわっている。みどりごが横たわっている。彼らが発見した光。その光の中に彼らは入っていった。彼らは喜びに満たされた。彼らは、神に栄光を帰して、向きを変えて歩み出した。

みどりごを発見した彼らは、自分自身を発見した。羊飼いたちは、真実の自分自身が、みどりごのように何もできないとしても、寝かされているだけだとしても、輝いていることを発見した。「闇の中に座している」と思っていたのは、自分たちの思い込みでしかなかった。立ち上がって、神を信じて歩み出せば、すべては輝き始めることを知った。彼らの歩みは、もはや「闇の中」にあるのではない。社会的には「闇」と言われるかも知れない。しかし、彼ら自身は「光の中」を歩いて行く。彼らは神の許で生きているのだから。この世が闇であっても、彼らだけは神の光の中を歩いて行く。如何なることがあろうとも、神は真実であると信じて歩いて行く。自分自身の哀れさに嘆く必要はない。神の光に包まれて、自分の罪深さを越えて、歩き出すことができる。彼らが立ち上がって、自分と同じみどりごを探したように、我々にも発見できる。如何なるところにも、神の光が注がれている。如何なるときにも、神の光が我々の闇に輝く。自分の罪を認めて、ありのままでは神に造られた者として生きることはできないと認める者。このような者が、キリスト者である。ありのままで良いはずはないと自分を省みる者がキリスト者である。どうにもしようがない自分を認めるとき、神に祈る者とされる。どうにもならない無力さを知るとき、神の力を祈り求める。神の光に照らされて、自分自身の罪を認める者こそ、羊飼いのように立ち上がることができる。自分の意志ではなく、神が語られた言葉が立ち上がらせる。これこそが、信仰における新生である。

羊飼いたちを立ち上がらせた「天使の知らせ」は、彼らの闇を照らす光。彼らと同じ闇の中に生きざるを得ないみどりごの光。飼い葉桶の中でも輝いているいのちの主。イエス・キリストの降誕は、我々に光を与えてくださる。わたしを罪の闇から解放してくださる光。あなたの心の闇に光が満たされる。あなたのために、キリストは今宵生まれ給う。縛られているあなたを飼い葉桶から解放するために。沈んでいるあなたを、あなたの闇から引き出すために。クリスマスは、あなたを照らす光の誕生。あなたを照らす光は、あなたのうちに入り来たり、あなたのうちで輝きたいと願っている。素直に、受け入れ、生きていただこう、あなたの主、イエス・キリストに。聖餐を通して、あなたの主を迎えよう。体と血をもって、あなたを愛し給うお方のすべてをいただいて、歩み出そう。

クリスマス、おめでとうございます。

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