「救いの現れ」

2021年12月26日(降誕後主日)
ルカによる福音書2章25節-40節

「今、あなたは解放している、あなたの奴隷を、ご主人様、あなたの語られた言葉に従って、平和のうちに」とシメオンは歌う。みどりごイエスを腕に受け入れて、歌う。「何故なら、見たから、わたしの目が、あなたの救いを」とシメオンは理由を付け加えている。「救いを見た」と言う。腕に受け入れたみどりごが「救い」としての現れだという意味であろうか。自分の両の目で「見た」とシメオンは言うのだから。聖霊によって告げられていたことにも、「見る」という言葉が二度使われている。「主のキリストを見る」まで「死を見ることがない」と。新共同訳では「会う」と訳されているが、原文は「見る」である。「見る」ことによる解放を歌うシメオンは、主の天使から「見る」ことを告げられていた。「解放」も「救い」も目で見て確認できることだと言われていたのだ、シメオンは。

確かに、我々は縛られていたところから解放されるのは、具体的な解き放たれる出来事を通してである。救われることも、抜け出せない窮状から引っ張り出されることである。そのような意味では、解放も救いも「見る」ものである。しかし、「見る」ものは過ぎ去っていく。時間と共に、記憶も薄れていく。我々が「見る」のが、目に見える出来事だけであるならば、それはいっときのことに過ぎない。見える出来事のうちに働いている見えない神の力を認めない限りは。見える出来事が現れるようにしているのは神の力なのである。

聖書が語る「見る」という出来事は、我々が考えているような人間の行為ではない。我々が何事かを見るということは、その対象に反射した光が我々の目に入ってくることである。反射した光が目に入ってきて、網膜に映像を結ぶとき、我々はその対象物を見ることができる。従って、光のない闇では何も見ることができない。さらに、光を受け入れるということは能動ではなく、受動である。その光がわたしの目に入ってこなければ見ることはできない。対象物が現れることによって、光が反射し、わたしの目に入ってくる。だとすれば、わたしが見るということは、あくまで入ってくる光を受け入れるということである。この光の受け入れが生じるためには、対象物が現れること、光の中に出てくることが必要なのである。シメオンが「見た」のは、光の中に出て来た「救い」である。それが、イエスという名のみどりごであった。シメオンがその子を腕の中に受け入れたとき、彼は「見た、あなたの救いを」と歌った。それは、わたしにあなたが現してくださった「あなたの救いを」、わたしは「見た」、つまり受け入れたという意味である。シメオンは「見る」ことにおける根源的なお方の救おうとする心を受け入れた。そのとき、彼は救われた。我々人間が救われているということは、このような出来事である。

神が現してくださった出来事を受け入れるとき、我々は救われている。これはただ一回の出来事である。神の救いは、受け入れる者にとってはただ一回の出来事である。いつも、神が現しておられるとしても、受け入れは一回である。一回受け入れれば、我々は解放される。解放された者は、常に神の出来事を見る目を開かれる。シメオンが「救い」と「解放」を語っているのは、このような事情である。シメオンが腕に受け入れたみどりごは「救い」そのものの現れ。イエス、「主は救い」という名のみどりごは「救い」そのものである。イエスが表しているのは「主は救い」という神の意志である。シメオンはこの意志を受け入れた。それが彼の救いである。彼の解放である。彼は、もはや待つ必要はない。一度、腕に受け入れた者は待つ必要はない。救いはすでに現れたのだから。

シメオンは、みどりごを「啓示の光」と呼ぶ。「啓示」とはアポカリュプシスという言葉で、覆いを取るという意味である。光が当てられて、覆われていたものが取り除かれる。そこにあったのに、今まで見えなかったものが見えるようになる。これが「啓示」である。取り除かれる覆いは、その人の目にかかっていたもの。罪の覆いである。覆いを取り除かれた者は、今までそこにあったのに見えなかったのは自らの罪のためであったと認識する。しかし、イエスは生まれたばかりのみどりご。今までは現れてもいなかった。八日前に生まれたばかりである。それなのに、シメオンは覆いを取り除かれなければ見えなかったのだろうか。今、現れたのではないのか。

イエスがみどりごとして生まれたのが八日前であろうとイエスを生まれさせる神の意志は存在していた。イエスを通して、神の意志が見えるように現れた。この神の意志をシメオンは見せられた、覆いを取り除かれて。それゆえに、シメオンは神を誉め讃える。みどりごは神の現れだと誉め讃える。「民たちの啓示への光。あなたの民イスラエルの栄光」と。みどりごがイスラエルの民の栄光だと言う。これは、イエスが「主は救い」として生きることで、イスラエルの民は輝くということである。それはイスラエルが誉め讃えられることではなく、イスラエルが用いられることにおける神の栄光である。神が、イスラエルを通して、栄光を現すという意味である。従って、イエスを通して、イスラエルは神の栄光のために用いられるとシメオンは歌っているのである。たとえ、イスラエルがイエスを拒否したとしても、用いられる。イエスが光としてすべての民を照らすとき、最初に啓示を受けたイスラエルが用いられる。拒否することによっても啓示の真実を輝かせる。シメオンもまた神の民として用いられる。神の意志を受け入れた者として用いられる。シメオンが神を讃美するのは、一人ひとりの目に「救い」の現れを見せてくださる神の働きを認識したからである。一人ひとりの目にかかっている覆いを取り除く「啓示の光」がイエスとして生きていると認識したからである。

シメオンが見ているのは、現れている現象ではない。現れている現象の根底にあって、働いている神の意志、神の力である。この根源的力を見るとき、我々は救われ、解放されていく。そのためには、シメオンと同じように「受け入れる」ことが必要なのである。見ることが光を受け入れることであるのと同じように、救いを見ることはイエスという光を受け入れることなのである。解放されるのは、イエスというお方を神の意志の現れとして「見る」目を開かれるときである。

我々人間は、自分の力で救われるのではない。神によって救われる。神の意志によって救われる。神が憐れむ御心によって救われる。救われた者は、すでに目を開かれているのだから、救われた後も神の働きを見る。あらゆるところに働いている神の働きを見る。これがキリスト者であり、目を開かれた者である。

クリスマスに生まれてくださった神の独り子イエス・キリストは、我々の目を開いてくださるお方。この啓示の光を受け入れるようにと、我々を照らしてくださるお方。我々はすでにある救いを見ている。どこにでもある救いを見ている。イエス・キリストというお方として見ている。イエスは、どこにでもおられる。あなたの救いとして存在しておられる。このお方を見て、受け入れることで、我々は神の意志が実現していることを認識する。我々人間の罪にも関わらず、神の救いは目の前にある。我々人間の愚かさにも関わらず、神の解放は目の前に与えられている。我々自身が、縛り合っていた鎖から互いに解かれて、それぞれの自由を認め合うように導かれる。それがシメオンが歌う「平和」である。

我々が縛り合っていた不自由さから解放されるために、イエスは生まれてくださった。互いの自由を認め合うようにと生まれてくださった。このお方こそが、自由の現れ、解放する光、救いの角である。我々は、このお方の者とされていることを感謝しよう。神を誉め讃えよう。わたしが自由に生きるために、生まれてくださったみどりごをわたしの腕に受け入れよう。救われている自分自身を見て、自分のうちに働いておられる神の力を讃美しよう。あなたの目の前に広がる世界は、神の救いに満ちている。神の憐れみに満ちている。神の喜びに満ちている。過ぐる一年の罪を越えて、あなたは救いの中で新しく生きて行くことができる。

祈ります。

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