「神の支配の中で」

2022年1月1日(新年礼拝)
ルカによる福音書12章22節-34節

「いずれにしても、あなたがたは探せ、彼の支配を。そして、これらのものは付け加えられるであろう、あなたがたに」とイエスは言う。「彼の支配」とは新共同訳が訳すように「神の国」のことではある。しかし、「国」という言葉は「支配」とも訳せる。「神の国」は神が支配している状態のことである。32節で「国を与えてくださる」と訳される事柄も、「神の支配を与えてくださる」という意味であって、神がご自身で支配したまう状態を与えてくださるということである。その状態に入るには、神の支配を受け入れるだけである。イエスが弟子たちに言うのは、「あなたがたは神が支配しておられる状態を探せ」ということである。神の支配を探せば、「これらのものは付け加えられる」のだと言う。つまり、神の支配こそが本体であって、付け加えられるものは付属物だということである。付属物ばかりに気を取られていると、本体である神の支配を見失ってしまうという意味である。そのような意味においては、イエスがルカ福音書17章20節、21節で言うように、神の国とは「見よ、ここに、あるいはそこにとは、誰も言わないであろう」というものである。神の国は「あなたがたの真ん中に存在している」ともイエスは言う。従って、外面的な姿で来るものではないのだと言っている。本体から現れるであろう付属物は、本体がなければ存在し得ない。従って、付属物をどれだけ探しても、本体は見つからない。本体を発見すれば、付属物は自ずと付け加えられていることが見えてくる。これがイエスが「思い悩むな」と言われる所以である。

「思い悩む」という言葉、メリムナオーというギリシア語は「分裂」と「思い起こす」という言葉からできている。つまり、分裂した思いが「思い悩み」である。統一された思考ではなく、別々に思考されている思いが「思い悩み」である。それゆえに、別々の分裂した思いだけにこだわって、全体が見えなくなることが「思い悩み」なのである。しかも、衣服や食べ物は本体の付属物なのだから、本体が見えないことには見えてこない。付属物にばかりこだわって思考していると、分裂した思考になり、まとまらなくなっていく。断片的にしか考えられなくなって分裂した思考が混乱を招くのである。

我々は目の前のことを断片的に考えてしまう。それだけを考えてしまう。そして、全体を見失う。全体は、神が支配しておられる状態である。これを捉えているならば、我々は全体から個々の出来事を見ることになる。全体が個々の出来事を生み出しているのであれば、個々の出来事が問題なのではない。個々の出来事が理解できないとしても、神の支配状態が働いていると信じるならば、ただ受け入れるであろう。受け入れていくことで、次第に理解していくものである。初めは分からなくとも、そのうち「こういうことだったのか」と理解し、「このために神が起こし給うた出来事だったのだ」と受け入れるのである。これが「思い悩み」を越えていく新たな視点である。だからこそ、イエスは「いずれにしても、あなたがたは探せ、彼の支配を」と言うのである。

「いずれにしても」とは、新共同訳で「ただ」と訳されているが、「それらのものはどうでも良いのだから、ただ」という意味である。「あなたがたは何を食べようかと探すな。何を飲もうかと思い悩むな」と言われて、それらの物が必要なことは父が知っておられると述べた上で、「いずれにしても」とイエスは言うのである。従って、我々人間が思い悩むことを承知の上で、「いずれにしても」本体が大事なのだとイエスは言うのである。この本体を探せば、これらのものは付け加えられるものだと。

我々は本体を探すことなく、付属物ばかりを探している。付属物のことで思い悩んでいる。それでは、真実に生きることにはならないとイエスは言う。真実に神の支配の中で生きるには、神の支配状態を探して、その中に入ることなのだと言うのである。これが新年に与えられている福音である。この福音を生きるために、新しい年が与えられている。新たに、思い直して、神の支配状態を探す旅を始めたい。

それはどこにでもある。神はどこにでも働いておられる。野の花の中にも、カラスの中にも、働いておられる。彼らが飾られ、養われているのは、神の支配状態が彼らのうちに、彼らの上に、彼らの下に存在しているからである。我々人間も同じく、神の支配状態の中で生かされている。我々を生かし給うお方のご支配を探すならば、どこにでも発見することができるということである。一度、発見したならば、我々は思い悩む必要はなくなる。神がこの小さなわたしを支配状態の中に入れてくださっていると信じるからである。それゆえに、苦難においても、困難においても、悲しみにおいても、病においても、我々は神の愛の外に追いやられることはない。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章38節で言う通りである。「なぜなら、わたしは確信してしまっているから、死も、命も、天使たちも、支配者たちも、現在あるものも、来ようとしているものも、(神の可能とする)力たちも、高いものも、深いものも、何か異なる被造物も、わたしたちを引き離すことはできないであろう、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からと」。このような信仰において、我々は救われている。我々は、神の愛から決して引き離されることのない状態に置かれている。これが信仰における救いである。そして、思い悩まない生の始まりである。

我々が思い悩んだところで、何ができると言うのか。神が定められた寿命を延ばすことなどできない。あくまで、神が定め給うた通りにすべては進行していく。神の意志の絶対的必然性によって、世界は前進している。その前進の中に、この新しい年も入っている。新しい年は、神の意志の絶対的必然性の中で過ぎて行く一年である。新しい年の上に、神の意志が生じる。神の意志が、我々人間を救い給う御心であることは、イエスの十字架が示している。救いの御心における神の支配状態が神の国なのである。この中に入るためには、発見するだけで良いのだ。

発見することは、目の前にあったのに、今まで見えなかったことを発見することである。発見していないときには、その中に入っていないのだから、神の支配状態はわたしの上には存在していない。いや、わたしが神の支配状態を拒否している。マルティン・ルターが小教理問答書の中で言うように、「神の国は私たちの祈りがなくともそれ自体で確かに来る。しかし私たちはこの祈りにおいて、み国が私たちのところにも来るようにと願うのだよ。」ということなのである。このわたしのところにも神の支配状態が来たりますようにと願い、祈るとき、我々はその状態の中で生きることになる。神の支配の中で生きるということは、このような信仰の状態なのである。この信仰さえも、我々のものではなく、神が我々のうちで働いておられる活動なのだと、ルターは言っている。従って、我々は全面的に神の支配状態の中で生きる。神の支配状態の中で生きなければ、真実に生きることはできない。このように信じる状態に入るために、イエスは「あなたがたは探せ、彼の支配を」と言われたのだ。この支配状態を明らかに見せてくださるのは、イエス・キリスト、我らの主である。

我々がイエスを主と受け入れ、従うとき、我々はすでに神の支配の中で生きている。信じるとき、即座に神の支配の中に入れられている。信仰が神からのものである限り、即座に入れられている。これが真実の信仰、信仰の真実。これが、新年の朝、我々に告げられている福音。我々は、この一年をいかに生きていくのか。目の前に神の支配が働いていることを認めながら生きていく。パウロが言うように、「今や恵みの時。今こそ救いの日」と生きていく。今、目の前にある恵みを見よ。今目の前にある救いの日を見よ。そこに神の支配が確かに働いていることを見よ。イエスは、年の初めにこう我々に語っておられる。イエスの体と血に与り、イエスが我々のうちに入ってくださり、我々が生きるのではなくイエスが我々のうちで生きてくださる。イエスが生きてくださることで、我々は新しい年も、神の支配の中で生きていくことができる。この幸いを感謝しよう。祈ります。

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