「動揺の誕生」

2022年1月2日(顕現主日)
マタイによる福音書2章1節-12節

「しかし、ヘロデ王と彼と共にいたエルサレムのすべての者が動揺させられた。」と記されている。「不安をいだいた」と訳されている言葉は、「かき回す」、「動揺させる」という意味の言葉である。東方からの三人の学者たちがもたらした「ユダヤ人の王として生まれた方はどこに。」という問いかけによって、ヘロデとエルサレムのすべての者が動揺させられた。生まれたみどりごは動揺をもたらす者として誕生したということ。まさに「動揺の誕生」である。

イエスは、動揺をもたらす者として誕生した。公生涯に出てからも、イエスは人々に動揺をもたらした。それまでの慣習的な事柄をすべて覆すような言葉をもって、人々の間に生きた。イエスというお方は動揺そのものなのである。動揺をもたらすことによって、イエスは派遣された使命を果たす。安寧を貪っている者たちを揺さぶり、目覚めさせる。既得権益を守ることばかり考えている者たちの足元を不安定にする。それゆえに、イエスは嫌われ、排斥される、十字架の上に。それによって、この世というものが、揺さぶる神の意志を拒否する存在であることが明らかになる。こうして、イエスはこの世を照らす光として生きた。イエスは、誕生の初めから動揺をもたらしたと聖書は語っている。動揺こそがイエスのいのちなのである。

三人の博士たちは、動揺するヘロデ王からベツレヘムという場所を示される。しかし、彼らはベツレヘムのどこに生まれるのかは分からない。彼らもヘロデの動揺によってうろたえていたであろう。彼らは、そのとき空を仰いだ。東方で見た星が再び現れるのを見た。彼らは喜びに溢れ、星が示す場所に行った。幼子とマリアとヨセフがそこにいるのを見た。動揺を越えて行くのは、天を仰ぐこと。天を仰ぐとき、人は人間的な思いや動揺から解放される。それは、地上的なものを離れることだからである。彼らは天上的な事柄の中に入れられた。天を仰ぐことによって、入れられた。

我々もまた、動揺することがある。そのときには、我々は自分でどうにかできるという思いに捉われている。地上的なことはどうにかできるように思える。しかし、地上的なことであろうとも神の意志がなけれは、生じることはない。従って、地上も天上も神の支配の中にある。これを受け入れるためには、地上に目を向けていてはならない。天上に目を向けることが必要なのだ。そして、ただ信じることが必要なのだ。

三人の学者たちは、星の動きを調べる天文学の学者たちだった。彼らは常に天を仰いでいた。ところが、ユダヤへ向かう道においては、地上に目を向け続けた。それゆえに、彼らもまた天上を忘れていたのだ。ヘロデたちの動揺に出会い、さらに地上的になった彼らを天上へと導いたのは、あの東方で見た星だった。天の星が、彼らを天上へと導いた。不思議にも彼らにはみどりごがいる場所が分かった。星の下にみどりごがいるとしても、近くなのか遠くなのかは分からない。しかし、彼らには分かった、みどりごの場所が。彼らの認識を開いたのは神である。星をしるしとして現した神である。

神は被造物である星を使って、導いた。神の導きは被造物を通して行われる。それが天の星であろうと地の人間であろうと、神が用いて示してくださる。神のしるしはどこにでもある。天からの信仰によって目を開かれた者に見えるしるしがある。三人の学者たちが見た星もしるしであった。誰にでも見える星がみどりごの場所を示していると受け取るのは信仰のみである。その夜、誰であろうと見ることができた星。誰もが見たであろう星。その星にみどりごの場所を見たのは三人の学者たちだけだった。これは信仰の神秘である。

信仰の神秘によって導かれた学者たちと、決して導かれることのなかった人々。この分かれ目は、確かに信仰ではある。すべての人々がみどりごの誕生に揺さぶられた。そして、揺さぶりをもたらしたみどりごを見出したのは信仰に導かれた者たちだけ。これは、何を意味しているのか。動揺から抜け出すには、動揺そのものの中に入る必要があるということである。イエスは動揺そのものとして生まれた。イエスの中に入ることによって、動揺から抜け出して、真実の土台である神の上に生きることができる。動揺が真実をもたらすと受け入れる者は動揺することはない。動揺の中にいれば、動揺は無いのだ。

イエスは、地上を揺さぶる。揺さぶることで、真実に生きようとする人間を呼び出す。イエスが慣習的な事柄を否定して、人間の根源的な罪に目を向けさせたのも同じ動揺をもたらすためである。揺さぶられるとき、人は真実を表してしまう。動揺するとき、本音が出てしまう。揺さぶりによって、罪が露呈する。これがイエスという動揺をもたらすお方の誕生の意味である。とすれば、イエスが慣習的な事柄を覆すことを我々が受け入れるとき、我々もまた真実に生きる者とされるということである。

我々人間自らが縛り縛られていたところから解放されるために、イエスは来てくださった。解放は揺さぶりによってもたらさらる。これまでの在り方とは違う在り方を生きるためには、揺さぶられることが必要である。揺さぶられて、これまでの在り方を離れて、新たに前に向かうためには、別の道を通る必要がある。それゆえに、三人の学者たちは、「別の道を通って、彼らの地方へと新たに離れていった」と記されているのだ。これまでのものを離れる別の道は必ずある。道はどこにでもある。にも関わらず、我々は前と同じ道を通る。一度通っているから安心なのだと通る。何も考えなくても良いのだから、通る。同じようにすることで表面的には変わりなくできるからである。しかし、新しいものは生まれない。動揺は、新しく創造されるために必要な神の働きなのだ。

使徒パウロもコリントの信徒への手紙二5章17節で、こう言っている。「キリストにおける誰であろうと新しく創造されたもの。古いものは過ぎ去った。見よ、新しいものが生じてしまっている。」と。また、ガラテヤの信徒への手紙6章15節では、こうも言っている。「割礼が何であろうと、無割礼が何であろうと、むしろ新しき創造」と。パウロもまた、古いものや既存の価値観を越える新しき創造を生きる道を歩いた。新しいものに生きるのがキリスト者だと、生きていった。パウロも古いものに苦しめられたのだ。キリストを十字架にかけたのも古い体制を守ろうとする指導層と民であった。キリストがルカによる福音書5章39節で言うように、「古いものを飲んで、誰も新しいものを意志しない。なぜなら、彼は言うから、古いものは心地よい」と。古いものに愛着を感じるのが人間であるとしても、新しい人間にはなり得ない。新しいワインは新しい皮袋に入れるべきなのだと言った後で、イエスはこう言っている。これが、人間が新しくなろうとしない古いものへの愛着だと言う。それゆえに、新しいワインであるイエスが古い皮袋を破りそうになることを見て、人々はイエスを捨てたのである。これが人間の罪であり、そこから解放するためにイエスは動揺を与えるお方なのだ。

動揺の誕生によって、動揺を消そうとしたヘロデの思惑を神はご存知で、三人の学者たちに別の道を通らせた。別の道が備えられていた。新しく生きる者には、別の道があるのだ。いや、別の道を通らなければならないのだ。同じ道を通っていては、古いものに取り込まれてしまう。同じ道は楽であるとしても、古きものにあなたを閉じ込める牢獄なのだ。

新しい年を迎えて、二日目の朝、顕現主日の礼拝を守る我々は、新しい道を歩いていこう。この年も、過ぎた年とは違うことを実行して見よう。周りに動揺が起こるとしても、イエスに従って、新たに歩み出そう。イエスは、そのために生まれてくださったのだから。イエスが真実の太陽として生まれたことを祝う顕現主日は、我々が真実を求めて新たな道を歩み始めることを促している。「古いものは過ぎ去った。見よ、新しいものが生じてしまっている」。新しいワインであるキリストの体と血に与って、キリストと共に新しく生きていこう。

祈ります。

 

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