「聖霊と火の中で」

2022年1月9日(主の洗礼日)
ルカによる福音書3章15節-22節

「その方は、あなたがたを沈める、聖なる霊と火の中で」と洗礼者ヨハネは言う。「その方」とは、自分よりも強い方としてやって来る方であると言う。自分はその方のサンダルのひもを解く価値もないとまで言う。洗礼者ヨハネよりも強いということが「聖なる霊と火の中で」人々を沈めることである。ヨハネによって水に沈められている人々に言うということは、水に沈められることを越えている出来事だということである。

水は、目に見えるもの。しかし、聖霊は見えない。とは言え、火は見えるのではないかと思える。この火は、もみ殻を焼き払う火であり、もみ殻は象徴的に自分を守る姿を表している。もちろん、ヨハネの洗礼はそれまでの清めの沐浴を越える一度だけの沈めであった。それゆえに、ヨハネの洗礼が示しているのは悔い改めであった。ところが、これは目に見える行為であり、人間が沈められる受動であっても、その外的な出来事を内的に受け止め直す必要がある。それに対して、ヨハネよりも強い方は、目に見えない聖霊と火の中で、あなたがたを沈めるとヨハネは言う。つまり、人間的な要素が排除され、全面的に受動する出来事を起こすのが「その方」なのだということである。

これは、一方的な神の出来事であり、その働きを担うのがイエスである。それゆえに、我々キリスト者の洗礼はキリストと共に死に、キリストと共に復活する出来事だと、使徒パウロは言うのである。この出来事については、ローマの信徒への手紙6章4節ではこう言われている。「それで、わたしたちは彼と共に葬られた、死への沈めを通して。ちょうど、キリストが起こされたように、死者たちから、父の栄光を通して、そのようにわたしたちもまた、いのちの新しさのうちに、歩くであろうために」と。パウロが言うのは、洗礼によって死ぬことへと沈められたということである。さらに、そこから起こされることで、いのちの新しさのうちに歩くことができるようにされると言う。これがキリスト者の洗礼である。その洗礼が「聖霊と火の中で」神によって行われると、洗礼者ヨハネは人々に伝えた。この洗礼の出来事が、我々人間に与えられるために、イエスはヨハネから洗礼を受けたのである。このイエスの洗礼にも「聖霊」が明示されている。

人々が沈められる中で、「イエスもまた沈められて、祈っていると、天が開かれることが生じた」と記されている。そして、鳩のような見える形によって、聖なる霊がイエスの上に降ることが生じたと、客観的報告のように述べられている。イエスご自身がそれを見たのか、洗礼者ヨハネが見たのか、民すべてが見たのかは分からない。さらに、天からの声も聞こえたと記されているが、この声もすべての民が聞いたようにも思える。聖なる霊も天からの声も、すべての者が見ることも聞くこともできたとも言えるし、選ばれた者だけが見て、聞いたとも言える。ルカは、これをただ開かれた状態で記しているだけである。つまり、聖なる霊を受けた者は、天からの声を聞くであろうということである。

さらに、聖なる霊を受ける者は、洗礼者ヨハネの言葉にあるように、裸の穀粒にされる火を経験すると言われている。自らを守っていた外側の覆いであるもみ殻を火で焼かれることで、裸の穀粒にされる。この状態に置かれることで、天からの声を聞く。「あなたはわたしの子、愛すべき者。あなたのうちで、わたしは喜ぶ」という声を聞く。つまり、罪によって覆われていた自分自身の覆いが、神によって取り除かれることが、火の中で起こる。そこにおいて、我々は神に創造された当初の裸の姿に戻される。その裸の姿こそ、神が愛するあなたであり、神が喜ぶあなたなのである、と天からの声は告げる。神ご自身が語りかける、裸のあなたに。これが、イエスの洗礼によって導かれるキリスト者の洗礼である。それゆえに、我々の洗礼においては、イエスのような鳩の形ではなくとも、光が伴うことも起こる。

洗礼を受けて顔を上げたとき、光に包まれるという経験をした方もいるであろう。この世界が裸の自分を喜び迎えていると、光の中で感じた者は多い。教会は、何者でもない者とされた者たちが神によって受け入れられるところ。そのためには、何者でもない裸のわたしにされる必要がある。これを行うのも神。聖なる火の中で、わたしの罪の姿が焼き払われ、裸の穀粒とされる。そのとき、我々は何の守りもないと思えるかもしれない。しかし、神があなたを守り給う。裸では、誰も認めてくれないと思うかも知れない。しかし、神があなたを認め給う。あなたの存在を認めてくださるお方が言う。「あなたはわたしの子。愛すべき者。あなたのうちで、わたしは喜ぶ」と。この声を聞くことが我々の洗礼である。

もちろん、この経験をすることができるのは大人になってからの洗礼だと思う人もいるであろう。無自覚な幼児洗礼の場合は違うのではないかと思うかも知れない。しかし、幼児こそ言葉にならない出来事を存在全体で受け取っているものである。彼らには言葉以前のイメージが与えられている。意識的に思い起こすことはないかもしれないイメージであっても、彼らの魂には刻まれている。それゆえに、幼児洗礼であろうとも彼らは神の愛を受け取っている。彼らのうちで神が喜んでいることを受け取っている。イメージとして受け取っている。イメージとしての天からの声を聞いている、彼らの魂は。我々キリスト者の洗礼とは、このような天のイメージが一人ひとりを包む出来事なのである。

そこから、新たな世界のイメージが広がる。この世界は、神が創造した世界。神が愛する世界。裸のわたしが神に愛されている存在。何者でもないわたしが神の子。罪の殻の中に隠れていたわたしが、罪の覆いを取り除かれて、裸にされる。この裸の姿こそが、神に造られたままのわたし。裸のわたし、裸の何者でもないわたし。このわたしを神は愛しておられる。ご自分の子として愛しておられる。この世の地位や財産に捕らわれることなく、このイメージを生きる者がキリスト者。これが、我々キリスト者の洗礼において生じる天の出来事である。

どうして、神はこのような出来事を起こし給うのか。我々には、このような経験がどうして必要なのか。それは、我々の罪、原罪が我々の目を塞いでいるからである。我々人間は、自分の意志で神に造られたままの姿を捨てた。原罪を犯したことによって、我々は自分の創造時の姿を恥ずかしいと思った。裸では恥ずかしいと思った。そこにおいて、神の創造が否定されている。つまり、我々は原罪において、自分自身を恥ずかしい存在だと認識するようになったのである。この間違った認識に基づいて、我々は自分を覆うものをいくつも重ねて着ていくことになった。自分を認めてもらうために、良い大学を出なければならないと思い込まされる。良い会社に就職しなければ、社会的に価値はないと思い込まされる。フリーターでは馬鹿にされると思い込まされる。実際に、社会に出れば、そのように他者を評価する者がいる。自分のことは脇に置いて、他者を評価する者がいる。そのような社会で生きていくために、我々はさらに覆いを重ねていく。こうして、自分自身の裸の姿を見えないようにする。自分自身にさえも見えなくなる。自分が一体何者なのか分からなくなる。自分を見失った人間を、神は造り変えようとなさった。独り子なるイエスを派遣し、洗礼を通して、創造当初の裸の存在として生きることができるようにしてくださった。これがイエスの洗礼の意味であり、我々キリスト者の洗礼の源泉である。

主の洗礼日を覚える礼拝を通して、我々は今一度、自分自身の洗礼の意味を思い起こそう。神があなたの上に霊を降らせ、あなたを愛する子として受け入れてくださった洗礼を思い起こそう。社会において否定されることがあろうとも、神はあなたを認めておられる。他者に蔑まれようとも、神はあなたを愛しておられる。神がイエス・キリストを通して、示してくださった愛は、あの十字架からあなたを照らしている。たとえ十字架に架けられようとも大丈夫なのだと照らしておられる。なぜなら、神があなたの創造主なのだから。あなたを造り、あなたを愛しておられる天の父の下で、キリストと共に裸のわたしを生きていこう。

祈ります。

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