「矛盾」

2020年1月30日(顕現節第5主日)
ルカによる福音書6章17節-26節

「幸い、貧しい者たちは」、「幸い、今空腹な者たちは」、「幸い、今泣いている者たちは」とイエスは宣言する。反対に、こうも言う。「災い、富んでいるあながたは」、「災い、今満足しているあなたがたは」、「災い、今笑っている人たちは」と。一般的見解に反する宣言が並んでいる。一般的価値観とは矛盾する価値観が述べられている。この矛盾はどうして語られているのだろうか。イエスの言葉の中心は「人の子の名のゆえに」という言葉である。それでは、貧しい人たちや空腹な人たちは、人の子であるイエスのゆえに、貧しく、空腹なのだろうか。社会に問題があるがゆえに、貧しさの中で置き去りにされているのではないのか。誰も気にかけてくれないがゆえに、空腹なのではないのか。それが人の子の名のゆえに起こっているのか。反対に、富や満腹も笑いも、人の子の名のゆえに起こっているのか。

この矛盾する状態を、イエスは預言者と偽預言者に同定している。貧しさと預言者は同じ。富と偽預言者は同じ。ということが語られている。預言者は、神の意志を伝えたが、社会批判を行ったがゆえに、社会から憎まれた。排除され、罵られて、追い出された。そのような預言者と貧しい者たちや泣いている者たちが同じだと、イエスは言うのである。預言者たちが迫害されたのは、幸いだと言うのである。しかし、迫害や追放が幸せなことだとは誰も思わない。それが幸いだと言うならば、この世界は逆転してしまう。しかし、そうはなっていない。イエスの当時も現代も、貧しさは不幸である。富は幸いである。悲しみは不幸であり、笑いは幸いである。イエスはどうして、これを逆転するのだろうか。

矛盾した言葉を語ったとしても、状況が変わることはない。貧しい者たちは貧しいままに置かれ、泣いている者たちは泣いているままに置かれる。この状況が逆転するとしても、将来のことであろう。イエスが逆転を語る言葉は未来形である。そこには、「今」と「未来」との違いが語られている。

「今」貧しくとも「未来」においては富むとは言われていないが、「今」泣いていても「未来」においては「笑い」が語られている。未来において、逆転するのであれば、価値観としては同じである。ところが、未来形を規定している言葉の前に、現在形の言葉がまず20節で述べられている。「神の国はあなたがたのものとして存在している」と。つまり、この現在形がそれ以降の宣言の言葉を包んでいるのである。

神の国、神の支配の働きがあなたがたのものとして存在しているがゆえに、貧しさは幸いだとイエスは言う。神が支配する世界を信じて生きることが幸いだと言うのである。そのときには、今の状態は逆転されると言う。これは、使徒パウロがコリントの信徒への手紙二6章8節から10節で語っている言葉と通じる。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。パウロがこのように語る背景には、現実に死にかかっている自分がいる。罰せられている自分がいる。悲しんでいる自分がいる。それにも関わらず、生きている。それにも関わらず、殺されてはいない。それにも関わらず、喜んでいる。このパウロが述べている矛盾した状態を可能にしているのは、「真理の言葉、神の力」なのだとパウロは語っている。このような信仰の状態が与えられているとき、我々はいかなることにおいても「神の可能とする力」のうちに生きている。それゆえに、自分を誇ることはない。自分の力を誇ることはない。イエスが言う富や満腹や笑いとは違う種類の富に満たされてる。それが神の可能とする力であり、真理の言葉なのである。

つまり、イエスが群衆に向かって語っている言葉は、パウロが言う真理の言葉、神の可能とする力なのである。それゆえに、この言葉を真実に受け取る者は、貧しくとも幸いであり、悲しんでいても笑うのである。パウロが語っている矛盾した状態は、信仰における真実な状態である。誠実な状態である。神の可能とする力を純粋に信頼する状態である。この状態に入れられるためには、真理の言葉を素直に受け入れるだけで良い。あなたが聞いた真理は、矛盾しているようでいて、神の真実を語っている。矛盾しているようでいて、神の現実を語っている。矛盾しているようでいて、あなたは神の支配に包まれている。この現実を生きる人は、この世においては追い出され、迫害されるとしても、神の支配の中で生きることができる。そして、笑うことができる。しかし、この世の一般的価値の中で生きるとき、貧しさは貧しさのままであり、泣くことは泣くしかないままである。

これを信仰の欺瞞だと言う人もいるであろう。現実が変わっていないのだから、貧しいままなのだから、たとえ神がそう言ったとしても、嘘でしかないと。嘘を真実だと誤魔化しているに過ぎないと。そうである。この世の一般的価値の中では、嘘でしかないであろう。富を確保しないでいては満腹も笑いもないと誰もが思うのだから。それがこの世の真実である。この状態から抜け出すには、貧しい人が同じ価値観の中で、富むように働くしかない。人を騙しても、自分に利益が舞い込むように働くしかない。富を積んでいける状態を自分の力で作り出すしかない。

ところが、これができる人は限られている。自分の力に頼りたくても、力がない人は多い。富を呼び込むためにも資金が必要である。貧しい人に資金はない。借金しかない。貧しさは貧しさのまま。お金持ちの家に生まれれば、お金持ちを保つことができるであろうが、そうでなければよほど能力のある人でなければ、お金持ちにはならない。富を手に入れることができる人は少ない。だから、そのような人は幸いだと言われる。笑っていられる人は少ない。だから、笑っている人は幸いな人だと思われる。悲しみなど彼らには無縁なのだろうと思われる。この状態は、この世では変わりようのない状態である。力を与えるのが神であろうとも、そこに不公平が生じていると思える。神が誰にでも力を与えるのであれば、誰も貧しい人はいないであろうし、嘆き悲しむ人もいないであろう。この世界の不公平は、神が作り出しているのではないのか。そうであれば、神は不公平の神である。たとえ、将来、この立場が逆転するとしても、価値観としては同じなのだから、依然として不公平の神ではないのか。

神が公平に正義を行うのであれば、誰も悲しむ必要はないはずである。それなのに、悲しむ人がいて、笑う人がいる。空腹の人がいて、満腹の人がいる。神はどこにいるのかと思う人がいてもおかしくはない。神はどこにいるのか。満腹の人のそばにもいるのか。空腹の人のそばにもいるのか。ただ、空腹の人、貧しい人でなければ、そばにいる神を信じるしかないところには導かれないというだけである。笑っていたことが、将来逆転するのは、神の支配を信じていなかったがゆえである。悲しんでいたことが将来笑いに変わるのは、神の支配の中で生きていると信じているからである。悲しみを悲しむことを、神が与えたこととして生きているからである。そのような人が、イエスの名のゆえに、神の支配を信じて生きている人である。矛盾を越える信仰を生きている人である。

矛盾があるとしても、越える力は十字架から来る。なぜなら、十字架で死んだお方が神によって起こされたのだから。生きるはずのないお方が生きている。それが十字架の言葉、神の力なのである。それゆえに、十字架を見上げる者は神の可能とする力の中で生きる。神の支配を信じて、すべてを引き受ける。十字架のイエスと同じく、神の可能とする力に委ねて、神の意志が行なわれることに信頼する。我々キリスト者は、このような道へと導かれている。死んでいるようで、見よ生きているとパウロが言う真実のいのちをキリストに従って生きて行こう。この世の矛盾を越える力は、神の言葉なのだから。

祈ります。

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