「父の憐れみ」

2022年2月6日(顕現節第6主日)
ルカによる福音書6章27節-36節

「あなたがたは生じなさい、憐れみ深い者として。ちょうど、あなたがたの父が、憐れみ深い者として存在しているように」とイエスは言う。「憐れみ深い」父のように「憐れみ深い者として生じる」ようにと命じる。このようなことが人間に可能なのかは別にして、イエスの命令は命令である。これに従うことができる力を我々人間が持っているから命じているわけではない。我々人間が力を持っていないとしても、神は命じる。神の意志は相手によって変更されることはないからである。

我々が従うことができることだけを神が命じるのであれば、神は我々の奴隷ということになる。むしろ、我々人間が神の奴隷なのである。だから、我々が従うことができなくとも、神は命じる。それは当然のことである。命じられたことに従うことができるのであれば、我々人間は原罪を犯すことはなかった。原罪を犯したということは、我々人間には神の意志に従う力はないということである。イエスが命じるということは、我々人間がイエスの命じるようにはなっていないことを示している。我々人間の現実をご存知で、イエスは命じる。

敵を愛することができない人間であるがゆえに、我々は互いに敵として生きている。敵を想定してこそ、味方同士の間で結束が生まれる。敵がいることで、同じ敵を敵としている存在が結ばれる。こうして、敵と味方、仲間と余所者が設定される。自分たちが設定した枠を越えることは、味方を売ることだと思われる。仲間を裏切ることだと批判される。それゆえに、自分が仲間として認められるために、余所者を排除する。使徒パウロが、最初のキリスト者たちを迫害したのも、そのような思考に支配されていたからである。しかし、パウロは、自分に現れた主イエスを見て、方向転換した。その方向転換が生じたのは、パウロ自身の中で疑問が生じていたからであろう。自分が迫害している存在は敵なのか。自分を疎外しているのは仲間ではないのか。敵とは何か。などの疑問がパウロの中に生じたからであろう。そのようなパウロの疑問に対して、パウロが迫害していたキリストご自身が現れてくださった。パウロを受け入れてくださった。それゆえに、パウロは抱えていた疑問への答えを受け取ったと言える。彼自身が迫害しているキリストに受け入れられていることを知ったからである。そこには、パウロの罪の赦しも生じていた。受け入れることは、赦すことでもあるとパウロは受け取った。だからこそ、パウロは異邦人を排除するのではなく、受け入れる方向に転換したのである。

我々は、自らのうちに疑問を持っているものである。これで良いのか。自分が行っていることは神の意志に反しているのではないのか。自分自身の思いと神の意志とはまったく違うところにあるのではないのか。このような疑問を持つことは誰にでもある。その疑問によって、我々は自分自身に問うている。お前はそれで良いのかと。

敵であろうと、苦しんでいる人を目の前にして、助けない者がいるだろうかと、誰もが思う。ところが、敵が苦しんでいるそのときに、いい気味だと思う心も起こる。同時に、いい気味だと思う自分を嫌な気持ちで見ている自分がいる。さもしい人間だと見ている自分がいる。そのようなとき、仲間から外れないために、我々は疑問を制して、いい気味だという気持ちの方を優先する。社会生活を円滑に進めるために、これは必要なのだと自分に言い聞かせる。こうして、敵は敵のままに、放置されていく。

我々は、疑問を制するのではなく、疑問のままに問い続けることが必要なのである。それゆえに、我々が命じられても従いきれない神の意志を、イエスは命じる。イエスの言葉がある限り、我々は常に疑問の中に連れ出される。疑問を疑問のままに考え続けるように促される。これが、今日イエスが我々に与えてくださる恵みである。

イエスの言葉を聞き続けるとき、我々は「人々が自分に行って欲しいこと」が何であるかが見えてくる。自分に行って欲しいのは、善である。わたしにとって善であることを、人々が行うことを意志すると、イエスはおっしゃっている。しかし、他者の意志をわたしが動かすことはできない。わたしの意志はわたしが動かすことができるかも知れない。そうは言っても、嫌な相手には動かしたいとは思わないのだから、これはなかなかに難しいことである。自分の意志を動かすことも、相手によって区別しているのが、我々人間である。それゆえに、味方には善を行い、敵には悪を行う。そのような人間が、自らのうちなる葛藤を見続けることは難しい。それゆえに、イエスは我々の葛藤を生み出す言葉を語る。イエスの言葉によって、我々は葛藤の中に投げ出される。こうして、不安定になった我々が、人間ではなく、天の父を仰ぐようにと導かれる。

「あなたがたの父が憐れみ深い者として存在しているのとちょうど同じように、あなたがたも憐れみ深い者として生じなさい」という言葉が語っているのは、父の憐れみが変わりなく存在しているということである。我々は、その憐れみから生じるように導かれている存在である。従って、我々自身が自分で生じることはない。神が生じさせてくださらない限り、我々は憐れみ深い者として生じはしない。

イエスが、「あなたがたは生じなさい」とおっしゃる言葉は、創造の言葉である。創世記1章において、「光あれ」と言われた神は、混沌の闇の中で言った。「生じなさい、光」と。同じように、イエスは我々に言う。「あなたがたは生じなさい、憐れみ深い者として」と。つまり、イエスの言葉は、創造の言葉なのである。従って、我々が「憐れみ深いものになろう」と思って、なるわけではない。命じられたのだから、そうなろうとするということでもない。ただ、イエスの言葉によって、我々は闇から呼び出されるのだ。自分の内なる闇から呼び出される。憐れみ深い者として、呼び出される。イエスの言葉を素直に聞く者は、「憐れみ深い者」として生きるようにされる。これが、イエスの福音の言葉である。

他者がわたしに善を行うようにというわたしの意志は、他者を動かすことができないが、わたしならば動かすことができるかもしれない。イエスの言葉を聞くわたしであるならば、動かされる。イエスの言葉を聞き続ける者は、創造される。イエスの言葉に従って、創造される。闇から呼び出されて、光の中へと創造される。それが、イエスの言葉の力である。

我々は、敵を愛するようにしなければならないのではない。敵を愛するように、創造される。創造された者は、敵を愛しているなどと思うこともない。ただ、目の前の助けを必要とする人を助ける。その人の苦しみに思いを寄せて、助ける。そこには、味方も敵もない。ただ、目の前にいる存在があるだけ。目の前に存在しているのは、わたしと同じく神の憐れみに包まれている存在だと認める。そのとき、我々は、憐れみを受けた者として、憐れみを生きる者とされていく。赦された者として、赦しを生きる者とされる。あなたの目の前にいるのは、神が創造し、神が守り、神が愛している存在。神の愛が創り出した存在。目の前の存在を、そのように見る目が開かれるとき、我々の前に存在しているのは仲間でも余所者でもない、ただ神に愛されている存在である。この世界に開かれるために、イエスは我々に不可能に思える命令を語る。疑問を疑問のままに抱え続けるならば、我々は神の力によって、再創造されるであろう。イエスの言葉こそ、我々を人間的な視点から解放するいのちの言葉である。

あなたを憐れみ、あなたの苦しみを知るお方が命じる言葉があなたのうちに生きるとき、もはやあなたが生きているのではないということが生じる。生きているのは、わたしのために、いのちを投げ出してくださった神の子。わたしのうちに、神の子イエス・キリストが生きている。この信仰的いのちの状態を創り出すために、イエスは今日もあなたに語ってくださる。「敵を愛しなさい」と。

いのちの言葉を聞き続けるあなたが、自分の闇から解放され、新たないのちに創造されていく。この恵みを感謝して、イエスの言葉と共に生きていこう。

祈ります。

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