「岩の上で」

2022年2月13日(顕現節第7主日)
ルカによる福音書6章37節-49節

「岩の上に、土台を彼は据えた」とイエスは言う。土台というものは、動かない岩の上に据えるものである。その土台の上に家を建てる。動かない岩がなければ、土台を据えることはできない。この岩とは何か。神である。神は、我々が生きるときの土台を据えるべき大岩である。この岩の上で、生きるべき人生の土台を据える。土台とは、イエス・キリストの十字架と復活であり、イエス・キリストそのものが土台である。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一3章11節でこう言っている。「イエス・キリストとして存在している土台のそばに、他の土台を誰も据えることは可能ではない」のである。つまり、神という大岩の上に据えられる土台はイエス・キリスト以外にはない。イエスが譬えておられる岩は神であり、その上にイエス・キリストという土台が神によって据えられている。我々は、神という大岩の上で、イエス・キリストという自分自身の人生の土台を据えられている。そのような者として生きるのがキリスト者である。この大仕事を成し遂げられたのは父なる神。キリスト者とは、一つの大岩の上で、一つの土台を据えられた者として生きる者のことである。

この土台は、人間が据えることができるものではない。人間は、神という岩の上で生きるべく定められている。しかし、自分という別の土台を据えてしまった。それが原罪である。原罪は、我々を自分という土台の生へと導いてしまった。それゆえに、神はイエス・キリストをこの世に送り、ご自身の上で生きるようにと、土台を据えてくださった。それが、十字架と復活の出来事である。十字架と復活の出来事を受け入れる者は、自分が置かれている大岩と土台とを受け入れる。わたしが生きるべき道は、この岩の上で、イエス・キリストに従って生きる道なのだと受け入れる。これがキリスト者とされることである。

この大岩の上で、土台の上に生きる存在は、揺るがされることなく、洪水が襲っても耐えることができるとイエスは言う。それは当然である。上に建てられている建物の堅牢さは、土台と大岩の上で確かになるからである。我々が家を建てるときと同じように、我々の人生の上にも同じことが起こっている。この岩の上で生きる者がどのように生きることになるかを、イエスはさまざまに語ってくださった。

ルカ福音書では、マタイ福音書の山上の説教が、平地の説教となっているが、それは誰もが聞くことができる平地において語られた言葉だという意味である。誰でも聞くことができるとすれば、誰も聞いていないとは言えない。山であれば、登ることが不可能な人は聞くことができない。しかし、平地であれば、誰でも聞くことができる。そのような意味で、ルカによる福音書の平地の説教はすべての人に開かれている神の言葉なのである。旧約聖書の出エジプトの際に、シナイ山で十戒を授けられたのはモーセ一人。それになぞらえて、マタイは山上の説教として、山の上でイエスの言葉が語られる。ルカでは、すべての人が聞くことができるように平地で語られる。ということは、すべての人が神の言葉を聞くことができるようにしてくださったのがイエス・キリストだということである。このお方の言葉は、神の言葉でありながら、すべての人が聞くことができる言葉として語られている。これを聞かなかったとは誰も言えない。

すべての人の耳に満たされた言葉を素直に魂へと受け入れる者は、確かに聞いている。しかし、満たされままで、受け入れない者は聞いてはいない。誰かに当てはめて聞く者は、自分の魂へと受け入れてはいない。神の言葉は、このわたしが聞くべき言葉であって、誰かに当てはめて、「あの人のことだ」、「この人のことだ」と他人事にしてしまうならば、我々は自分自身の魂で聞くことはない。自分の目の中の丸太に気づくことなく、他人の目の中のおが屑が気になるわたしはこのようである。我々は、そのようにして、原罪を犯した。原罪は禁断の木の実を食べたことだけにあるのではなく、アダムとエヴァが罪責を責任転嫁していることにもある。そこから抜け出すために、一人ひとりが聞くようにと、イエスは平地で説教する。

イエスの言葉を自分の魂で聞く者のことを、「善き人間」は「心の善き倉から善きものを運び出す」とイエスは言う。我々人間には「心の善き倉」があるのだろうか。反対に、「悪しき人間」は「悪しきものから悪を運び出す」とも言われている。さらに、「なぜなら、心に溢れているものから、彼の口は語っているから」と言われる。つまり、人間には「心の善き倉」と「心の悪しき倉」があることになる。マルティン・ルターが「奴隷的意志について」という本で語っている馭者のたとえのように、どちらに支配されているかによって変わるということであろうか。ルターは、我々人間を馬車に見立て、馭者が神か悪魔かによって、進む道が変わるのだと述べている。原罪を犯した我々人間の上に、悪魔が馭者として乗っている。その悪魔を蹴落として、神とキリストが我々の馭者台に乗ってくださることで、我々は神に従う道を進むことができると、ルターは述べている。我々自身が悪魔を蹴落とすことはできない。たとえ蹴落としても、馭者はいないまま、右往左往することになる。神とキリストが馭者として乗ってくださるがゆえに、我々は迷うことなく、道を進むことができる。そのような意味では、「心の善き倉」と「心の悪しき倉」から運び出すのは、それぞれ神に支配されている者か悪魔に支配されている者ということになる。そう考えてみれば、イエスが言う大岩の上で生きるということは、「心の善き倉」から運び出す生き方である。この「心の善き倉」を選択するのは、人間ではない。神が我々のうちに働いて、選択させる。神がわたしの馭者となってくださることで、この選択が可能とされる。大岩の上に据えられたキリストという土台から外れない生き方は、神の御業なのである。

善き木と悪しき木が結ぶ実のたとえも同じ。善き木は善き実をもたらすことしかできない。悪しき木も悪しき実をもたらすことしかできない。このたとえが示しているのは、木そのものの働きはその木固有の実を結ぶことである。その木固有のものではない実を結ぶ木は存在しないということである。その木固有の実とは、神が結ぶように造ってくださったままの実である。その在り方から外れてしまった我々人間は、悪しき実しか結び得ない。原罪が邪魔をして、我々を悪しき実を結ぶ木にしてしまっている。そうであれば、神が造り給うた本来の木に戻ることはできないのであろうか。

人間が自分の力で悪しき木となってしまったのであれば、自分の力で善き木となることも可能かもしれない。しかし、我々人間は、自分が力ある者になろうとして、原罪を犯した。そそのかしたのは蛇である。他者の口車に乗って、力があると思い上がった人間は、自分では戻り得ないところに導かれてしまった。それゆえに、神が我々を連れ戻すしかない。旧約聖書において、神はたびたびご自身の許に帰ってくるようにと呼びかけている。しかし、人間は帰ることができなかった。それゆえに、神はイエス・キリストを派遣し、その十字架と復活を通して、我々を引き戻してくださる。イエス・キリストは十字架を通して、人間が神の意志に純粋に従う道を示してくださった。我々は、十字架と復活に示されているキリストの歩みに素直に従う者として、キリスト者なのである。

イエスは、死に至るまで神の意志に従い通した。自分の意志を捨てて、ただ神の意志に従い通した。我々が死を恐れて、神の意志に従う道を外れてしまわないようにと、神はキリストを復活させてくださった。キリストの十字架と復活を仰ぐ我々キリスト者は、死が終わりではないことを信じている。死を超えて、生きる永遠のいのちを信じている。それゆえに、我々は不安に陥ることはない。神の意志に従い行けば、必ず生きることになると信じることができる。今日、イエスが語ってくださるように「岩の上で」生きることができる。揺さぶられることなく生きることができる。あなたは神とキリストによって、岩の上に置かれた存在なのだから。

祈ります。

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