「発見される信仰」

2022年2月20日(顕現節第8主日)
ルカによる福音書7章1節-10節

「イスラエルにおいて、これほどの信仰を、未だかつてわたしは発見しなかった。」とイエスが言うと、百人隊長に遣わされた友たちは、戻った家で、「健全になっている奴隷を発見した」と言われている。イエスが発見した百人隊長の信仰が現れて、彼の奴隷の健全さとして発見されたということである。イエスが発見した百人隊長の信仰は、「ロゴスによって、言い給え」という信仰である。言葉ロゴスで言ってくれれば、それで充分だという信仰である。それは、自分自身の働きの中でも言えることだと彼は言っている。それと同じように、言葉によって言ってくれれば、「わたしの子は癒される」と彼は言う。言葉だけで充分なのだと彼は言うが、それは彼の自己認識から出た言葉である。

百人隊長は、友たちを送って、こう言った。「わたしは相応しい者として存在していない。わたしの屋根の下に、あなたが入るためには」と。イエスが自分の屋根の下に入るなどということは、わたしには相応しくないとの自己認識があった。彼が異邦人だったからであろう。異邦人とユダヤ人は食卓を共にしないだけではなく、直接的な交流もしないことになっていた。それゆえに、互いの家にも入らない。だから、百人隊長の家はイエスが入るには相応しいところではないと言ったのだ。

村の長老たちは、イエスの許に来て、彼は相応しいと言っていた。それなのに、彼自身は友を通じて、相応しくないと言う。百人隊長は、長老たちに頼んだ、イエスを呼んで来て欲しいと。彼らはイエスの許に来て、イエスに言った。百人隊長は、村の人々のために会堂を建ててくれたほどに神を信じているのだから、癒していただくに相応しいと。しかし百人隊長は思い直した。異邦人であるがゆえに、イエスを屋根の下に入れるには相応しくない存在なのだと、友を送って、イエスに伝えた。その認識を表明した百人隊長において、神からの信仰が言葉として現れた。

「言葉ロゴスによって、言い給え」と言うイエスへの伝言も、友を通じての言葉によってであった。ここでは、百人隊長とイエスとは一瞥もしていない。直接の言葉の交換もない。友を通じての言葉ロゴスの交換があるだけである。それなのに、彼の奴隷は癒され、健全さを取り戻した。この出来事では、言葉だけが交わされ、しかも互いに友を通じての交換だけ。ということは、友がイエスに語るときには、百人隊長はすでに友に語っていたのであり、イエスが彼の信仰を認めたときには、すでに語られていた百人隊長の言葉に信仰を認めたのである。従って、百人隊長はイエスに会わなくとも信じていた。友に伝言を頼んだときに信じていた。その信仰をイエスは発見した、「これほどの信仰を、未だかつてわたしは発見しなかった」と。

彼の信仰を発見したイエスが、百人隊長が求めたような言葉を発しなかったにも関わらず、家に戻った友たちが、健全になった奴隷を発見した。イエスは何もしていない。「癒されよ」とも語っていない。イエスは、百人隊長の信仰を発見したと述べただけである。にも関わらず、奴隷は癒された。百人隊長は信じた言葉を語った時点で、すでに神に委ねていたのであろう。すべてのことを配慮してくださると信頼して、委ねていた。だから、イエスが直接来ることを求めなかった。直接言葉を交わすことも求めなかった。ただ、自らの信仰をイエスに伝えた。友を通じて伝えた。それだけである。

たとえ、百人隊長が信仰深い人であったとしても、彼の奴隷が死にかけているのは事実である。イエスに癒しを願うことなく、祈っていたとしても、奴隷は癒されたのであろうか。それは、分からない。しかし、百人隊長は、自らの信仰を表明する機会を得た。イエスがもうすぐ家に着こうとしていたところで、彼は友を送った。イエスに屋根の下に入ってもらうことを押し留めた。それまでは、イエスに来て欲しいと願っていたにも関わらず、直前になってイエスを止めた。どうしてなのか。イエスが来ることを願っていたのに、どうして直前で止めたのだろうか。彼が彼の奴隷のための祈りにおいて、自分を認識したからである。自分とイエスとの人種の違いを認識した。それまでは、奴隷が癒されることだけを願っていたが、祈りの中で彼は落ち着いて考えたのであろう。自分が異邦人であることを、彼は思い出した。そして、イエスに申し訳ないと思った。イエスが自分の屋根の下に入れば、汚れてしまうと思い、友を遣わして、止めさせた。

百人隊長は、自己認識において、奴隷の癒やしが行われないという事態に直面することになった。イエスが来てくださらないのであれば、癒されないかもしれないというところに立たされた。そこにおいて、彼は絶望するのではなく、信仰を起こされた。言葉に従う信仰を起こされた。彼は思いを転換された。彼の意志ではなく、神の意志に転換された。彼自身が願った事柄を越えて、ただ神に信頼するところへ転換された。これが起こったのはどうしてなのか。彼の自己認識が起こったのはどうしてなのか。彼の祈りにおいて起こったことなのだろうか。神に祈る彼の思いが変えられた。その思いを素直に受け入れた百人隊長。その思いをもって、素直に神に従った百人隊長。そこに彼の信仰を発見したイエス。発見されたとき、百人隊長の信仰は彼の奴隷の上に現れた。イエスの発見によって、現れた。

この現れは、彼が友たちに語った言葉に宿っていた信仰である。この信仰の現れを呼び出すために、イエスは百人隊長のところへ向かったのだろうか。いや、イエスご自身は彼の奴隷を癒そうとして、歩き始めた。しかし、途中で、百人隊長は思いを変えられた。神によって、変えられた。変えられた思いは神からの信仰だった。それゆえに、イエスと百人隊長は出会うことなく、奴隷は癒された。出会わなくとも、癒される信仰とは、いったいどのような信仰であろうか。イエスが言うように、「これほどの信仰を、未だかつてわたしは発見しなかった、イスラエルにおいては」というほどの信仰。このようなところへと導き給うたのは、神である。百人隊長がイエスのことを思い、イエスに汚れが移らないようにと配慮したがゆえに、彼は信仰を起こされた。信仰は、他者を汚さない。信仰は、神が働き給うことを信じる。信仰は、神の憐れみにすべてを委ねる。それゆえに、百人隊長はイエスへの言葉において、イエスの言葉ロゴスを受け取っていた。イエスが語らなくとも、受け取っていた。イエスの言葉のうちに働く神の力を受け取っていた。イエスの言葉は、口で語られなくとも、百人隊長には届いていた。イエスが必ず、「癒されよ」と意志し給うと信じて、受け取っていた。それが彼の信仰だった。彼自身が動かされている権威と同じ権威を彼は受け取っていた。権威の下に生きるということが如何なることであるかを知っていた。いや、彼がイエスを止めたとき、彼は自分のうちに働く神の権威を発見したのだ。この発見において、彼は信仰のうちに入れられた。神の権威のうちに入ることが信仰だと受け入れた。それゆえに、直接の言葉が彼に発せられなくとも、イエスのうちに働く神の言葉が聞こえていた。聞こえていた神の言葉が、彼のうちに働き、彼の奴隷を癒した。発せられない言葉ロゴスが、彼の奴隷を癒した、健全な者として。

我々は、イエスの言葉ロゴスをこのように受け取る。このように受け取るには、自己認識が必要である。相応しくない者という自己認識が必要である。相応しくない者を憐れみ給うお方を信じることが信仰である。「わたしは神の働きを受けるに相応しい」と思い上がる人間は、神を使う立場に生きている。相応しくないとへりくだる人間は、神に委ねる立場に生きている。相応しくない者を顧みてくださる神の憐れみを見上げている。我々の信仰が、このようであるか否かを、神はすでに見ておられる。我々が、自分自身の相応しさに酔うとき、我々は相応しくない。わたしは相応しくないと認識するとき、わたしのうちに神は信仰を発見してくださる。相応しくない者を憐れむ神を発見したあなたの信仰を、神は発見しておられる。喜んで、神ご自身の憐れみをあなたに注いでくださる。

祈ります。

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