「選ばれし者」

2022年2月27日(主の変容主日)
ルカによる福音書9章28節-36節

「その声が生じることにおいて、イエスだけが発見された」と記されている。雲の中からの声の発生とイエスのみの発見が連動している。声が言うように「この者は、わたしの息子、選ばれし者。彼の事柄をあなたがたは聴け」ということである。「彼の事柄を聴け」という声の意味は、イエスのみが「選ばれし者」であって、「彼の事柄」のみにわたしの声が聞こえるはずであるということである。これを蔑ろにするようなすべての事柄を捨てよという意味でもあろう。そのような意味においては、モーセとエリヤも違うのだということである。モーセでもなく、エリヤでもなく、イエスだけが「選ばれし者」であるという意味であろう。この「選ばれし者」の事柄のみから、神の意志が聞こえるということである。

もちろん、ここで聞こえてきた声は、神の意志である。モーセもエリヤも神の意志を伝えた。しかし、モーセもエリヤも「わたしの息子」の事柄を聴く存在だということでもあろう。ヨハネによる福音書5章46節では、モーセは「わたしについて書いた」とイエスはおっしゃっている。ヨハネ福音書が語るとおり、モーセが語った神の意志はイエスについて語っているのである。神の意志である律法が何故イエスについて書かれているのかと言えば、人間が守り切れない律法によって自らの力ではなく、神の息子の力に依り頼むようにと、モーセは書いたということである。ペトロにとっては、モーセとエリヤと話しているイエスは、モーセとエリヤと同等の存在だと思えたであろう。しかし、そうではないのだと、雲からの声は言うのである。彼らがイエスと話しているのは、イエスそのものが神の意志だからなのだということである。

ペトロが仮小屋を建てようと提案したことに対して、雲からの声が「選ばれし者の事柄を聴け」と言う。それゆえに、歴史上の偉人であるモーセもエリヤもイエスに聴いているということである。聴いている内容は、「イエスのエクソドス」つまり「最期」についてであった。

エクソドスというギリシア語は、エクスとホドスからできている言葉である。エクスは「外へ」という前置詞であり、ホドスは「道」である。エクソドスとは「道の外へ」、「道を外れて」という意味である。それはまた「この世を出て行くこと」を表していると理解されるがゆえに、「死」を意味する「最期」と訳されている。しかし、イエスのエクソドスは、この世の道から出て、神の道に入ることを意味しているであろう。モーセが神に出会ったのは、道を外れて、燃える柴を見に行ったからであった。そこにおいて、モーセは神に出会い、神の言葉を聴いた。「わたしがあるものとしてわたしはある」という声を聴いた。だとすれば、イエスがモーセとエリヤと話していたのは、「わたしがあるものとしてわたしはある」というお方として話していたのではないのか。ペトロには、そこまでの理解は無理であった。それゆえに、この世の中で仮小屋を建てることしか思い浮かばない。それでは、イエスの墓を建てるようなものだとも言える。ペトロには、そこまでの思考は働かなかった。それゆえに、雲からの声が言う。「彼の事柄を聴け」と。

では、イエスの事柄を聴いたならば、どうなるのであろうか。イエスの事柄は、イエスの最期、イエスのエクソドスとしての十字架である。十字架こそが、イエスの事柄であって、他には何もない。十字架がエクソドス。人間の道を外れて、神の道に入ることを指し示す。このイエスの十字架によって、「選ばれし者」の事柄が聞こえてくる。この世の道を外れる死を越えて、生きているお方の事柄が聞こえてくる。その事柄を聴く者は、死を越えたいのちの事柄を聴くであろう。そう理解するならば、イエスの外観、様相が「異質なもの」、「今まで見たこともないようなもの」として生じたことも理解できる。

「顔の様子が変わり」と訳されているが、この言葉は「顔の外観」、「顔の様相」であり、見えている顔のありさまである。その見えている顔のありさまが、「異質なものとして生じた」と言われているのである。「異質なもの」とは、今まで見たこともないようなもののことである。つまり、イエスは神としてのありさまを見せたのであり、天上的存在としての本質を現したということである。

ペトロのキリスト告白に対して、ご自身の受難について述べた後、ペトロたち三人と山に登り、ご自身の本質を現したイエス。このお方は、神としてのありさまをペトロたちにだけ見せた。しかし、ペトロは理解できず、地上的事柄に留めようとした。それに対して、雲からの声が言う。「この者は、わたしの息子。選ばれし者。彼の事柄をあなたがたは聴け」と。見たままのイエスの事柄が、イエスのエクソドスを語っている。人間の道を外れて、神の道に入る十字架を語っている。それこそが、イエスがこの世に来られた意味であると。

ペトロのキリスト告白が指し示すのも、この世の事柄を外れて、神の事柄に入ることである。洗礼者ヨハネやエリヤが、そこでも語られていた。しかし、そのような地上的な存在ではなく、「神のキリスト」であるとペトロは告白した。この告白こそが、神の息子であり、神であるキリストという意味なのである。このような告白をペトロ自身は理解しないままに告白している。それゆえに、イエスに地上的栄光を求めて、仮小屋を建てる提案をするのである。イエスが語っていた受難予告における「栄光」は、地上的栄光ではない。むしろ、地上的栄光を外れて、天上的栄光に入ることを語っていた。それが十字架であること、受難であることを語っていた。それこそが、エクソドス、道を外れることだった。

イエスは、山の上でご自身の真実の栄光を示してくださった。その栄光は、イエスの栄光ではあるが、この世の栄光ではない。道を外れているがゆえに、この世の道ではない。この世を離れるが、この世を捨てるのではない。この世のために、この世の道を外れて、神の道を指し示す。それが十字架であり、復活なのである。この道の上にこそ、真実のいのちがあり、真実の救いがある。イエスと共に、この世の道を外れることにこそ、救いがある。この世の道を外れたとしても、いのちの復活がある。これが、イエスの事柄を聴くことである。このように聴く耳を開かれた者も、イエスと同じように「選ばれし者」である。それゆえに、ペトロたちも「選ばれし者」である。それが理解できないとしても、雲からの声が聞こえたのだから、「選ばれし者」である。そして、我々もまた、ペトロと同じように「選ばれし者」。なぜなら、キリストの十字架から聞こえる声に聴き従うからである。

我々が選んで聴き従うのではない。神が我々を選んで、聴き従う者としてくださった。それゆえに、我々はこの世の道を外れて、イエスに従った。この世の栄光を捨てて、イエスに従った。この世の栄光は死で終わる。しかし、イエスの十字架は死で終わらないいのちを証ししている。イエスの十字架の道に従うようにと、十字架の言葉は語っている。受難予告において、イエスがおっしゃったように、「自分を捨て、日々、自分の十字架を負って」イエスに従う者は、もはやこの世にこだわらない。この世に支配されない。ただ、神にのみ従う。そのような道に導かれた者が、我々キリスト者。キリストのものとして「選ばれし者」。誰も、耳を傾けないとしても、我々はキリストの十字架の言葉を聞いている。誰も、見ようとしないとしても、我々はキリストの十字架を見上げている。誰も、従おうとしないとしても、我々はキリストに従う。この世の道を外れてもなお、キリストに従う。

このような者を起こし給うのは、イエスの事柄である。あの十字架にこそ、イエスの事柄。あの十字架に神の道がある。この世を外れる神の道がある。我々は、道を外れて、神に出会う。道を外れた栄光に出会う。この道行きが、イエスの御受難の道。これから始まる四旬節の歩みは、イエスの御受難の道を共に辿る歩み。神の息子の歩んだ道、十字架を見上げながら、神に至る道を歩いて行こう。あなたのいのちが見える道を歩いて行こう。

祈ります。

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