「父のそばの報い」

2022年3月2日(聖灰水曜日)
マタイによる福音書6章1節-6節、16節-21節

「あなたの倉が存在しているところ、そこに、あなたの心もまた存在するであろうから」とイエスは言う。ここで言われている「倉」という言葉は、「宝」とも訳される。「倉」には「宝」が納められているからである。従って、「倉」であろうと「宝」であろうとその中心は宝を倉に納めておられるお方であり、「宝」はそのお方ご自身だということになる。なぜなら、「倉」に納められている「宝」を報いとして与えるお方こそが、真実に「宝」だからである。それゆえに、イエスは先の言葉において、こうおっしゃっていた。「隠れたことにおいて見ているあなたがたの父が、あなたに与え返すであろう」と。

「与え返す」という言葉は、「報いる」ということである。「報い」とは、先に差し出すものがあって、それに見合ったものが「与え返される」ということである。これでは、功利主義ではないかと思える。何もできない者には、「返される」ものはないことになる。人間が、先に神に与えて、それに見合ったものが与え返されるとすれば、功績を積んだ者に報いがあるということになる。マタイ福音書は、このような報いの獲得を勧めているのであろうか。

善行や施し、祈りや断食という行為が行われる場所が、人々の前ではなく、「隠れたところにおいて」行われるようにとイエスは勧めている。そうであれば、イエスが勧めるのは、人間たちからの栄誉を受けようとして行動するなということである。むしろ、隠れたところにおいて見ておられるお方の前で、行うようにとの勧めである。それが、「あなたがたの心が存在するところ」であり、「あなたがたの倉が存在するところ」である。その「倉」は神のそばに存在している。だからこそ、父なる神のそばでの報いについて、1節で述べられているのである。

6章1節ではこうイエスはおっしゃっている。「あなたがたは予め持っていなさい、あなたがたの義を行わないことを、人間たちの前で、彼らに見られることに向けて」と。この言葉は、人間たちの前で、人間たちに見られるために、あなたがたの義を行わないと、予め心に決めておきなさいという意味である。そうしなければ、「天におけるあなたがたの父のそばで、報いをあなたがたは持っていない」とイエスは言う。ここで「持っていない」と現在形で語られている。持っていないがゆえに、人間たちに見られて、誉められるために、善行を行うということに陥るのだと、イエスはおっしゃっているのである。つまり、先にあるのは、「天における父のそばでの報い」だということになる。報いが先にあるのである。その報いを持っている人は、人間たちからの報いを求めることはないという意味である。では、先にある「報い」、「父のそばにおける報い」とは一体何か。

「天における父のそばで」と言われているのだから、死んだ後の「報い」だろうと思える。あるいは、終末における「報い」であれば、ずっと先に与えられる「報い」だから、現在形ではないと思える。ところが、この将来の「報い」を受け取ることは可能なのである。地上においては不可能であるが、天上においては可能である。未だ見えざる天上における報いを現在形で受け取るのは、信仰なのである。それを与えるのは、「隠れたことにおいて、見ている父」と言われているからである。さらに、最後に言われているように、その信仰とは「心」の信仰なのである。信じる者の心には、天における倉から宝を与え返してくださる父のそばが存在している。それゆえに、父のそばは、現在形で存在している、信じる者の心に。それが「天における倉」である。

現在形で信じている者は、その人の心のうちに「天における倉」を持っている。先に報いをいただいている。それゆえに、地上において、善行を行うときにも、人間たちの前で行うことはない。人間たちに誉められることを求めることもない。ただ、与えられている現在に応えて生きようとする。従って、「報い」が先にあり、「報い」に応えて、行いが続く。これが信仰における「報い」である。このような先行する「報い」を我々は「恵み」と呼ぶのである。なぜなら、行いがないにも関わらず、与えられているからである。行いができないにも関わらず、与えられている「報い」も「恵み」である。そうすると、行わなくても良いのではないかと思えてしまう。信じているならば、行わなくとも「恵み」が与えられている。しかし、「恵み」を真実に受け取っている人は、「行おう」とするであろう。ところが、行う力はその人にはない。だとすれば、どうやって「行おう」とすることを実現するのであろうか。神の力によってである。

旧約聖書の日課であるヨエル書2章18節ではこう言われている。「向きを変えよ、わたしまで、あなたがたの心全体で」と。向きを変えるというヘブライ語はシューブという言葉で、ギリシア語のメタノイア悔い改めに相当する言葉である。「立ち帰る」と訳されるが、人間に向いていた生き方の向きを変えて、神に向かって生きることを意味している。向きを変えた方向におられるお方がすべてを与えてくださるのである。それは、全面的に神に信頼せよという意味なのである。使徒パウロがローマの信徒への手紙4章21節で言うように、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方」なのである。このお方を信じる者は、自らの力では不可能であることを神は可能としてくださると、信じるのである。これこそが、信仰である。

神の言葉を信じるということは、言葉による約束を信じるだけではなく、約束を実現するお方は神だけであると信じるのである。そのような信仰においては、不可能はない。人前で誉められることを求めることもない。人から蔑まれようとも、神を信じ、従っていく。預言者たちはそのように生きた。この世では、迫害されたが、先にある報いを受け取っていた。それゆえに、迫害を越えて、生きる力を神からいただいていた。報いに応えて生きるということは、応える力も神からいただくということである。徹頭徹尾、神のうちで生きるということである。そのとき、我々は落胆することなく、自分を誇ることなく、ただ神を讃美する。

その神は「父」と言われている。つまり、父が子に与えるものはこどもが良くできたから与えるのではない。良くできるようにと与える。ご褒美ではなく、できるようにする力を与えるのである。こどもにとっては、父は恐い存在であろう。何でもできて、何でも知っている。隠していてもお見通しである。隠れることもできず、誤魔化しも通用しない。しかし、すべてを見ておられるから、必要なものを必要なときに与えてくれる。さらに、将来必要になるだろうと、準備しておいてくださる。それが天の父であるならば、我々は恐れる必要はない。むしろ、どんな時でも助けを求めることができる。

そのような天の父は、隠れたところにおいて見ていると、イエスは言う。だから、人間たちの前で誉められることを求めるな、とイエスは言うのだ。あなたがたの父はちゃんと見ておられるから。安心して良いのだと。そのような父を見出すために、父はあなたに信仰を与えてくださるのだと。だから、隠れたところで父に祈れと、イエスは言う。聞いてくださるからと、言うのだ。

すべては、神の御手の中にある。神のそばにある。天における倉がある。あなたがたの心がそこにあるならば、あなたがたのために父が倉に納めておられるものは、あなたがたのものなのだと信じることができるだろうと。そこに「報い」が先にある。今現在ある。これを信じることが、天の父のこどもとして生きることなのだと。

我々は、何もできないこども。その我々のために父は天に倉を用意しておられる。その倉を見出す信仰も与えてくださる。現在において、与えてくださる。このような父を持っている幸いを感謝しようと、イエスは言うのだ。この信仰を、あなたがたのうちに起こすために、イエスは十字架を引き受け給うた。イエスの十字架はこの倉を開く鍵。自分の十字架を取る者は、鍵を手にする。イエスと共に、天の父の子として生きる鍵を手にする。四旬節の歩みの果てに与えられる鍵を見上げて歩もう。

祈ります。

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