「存在証明」

2022年3月6日(四旬節第1主日)
ルカによる福音書4章1節-13節

「もし、神の息子としてあなたが存在しているなら」と二度も悪魔は言う。悪魔とは、神に向かって、人間を誹謗中傷し、貶める存在である。貶められた人間は、自らの存在証明を悪魔に向かって行うことで、悪魔の手に落ちてしまう。イエスに対しても、悪魔は存在証明を求めている。「神の息子」としての存在証明である。この存在証明を行うために、石をパンに変え、悪魔にひれ伏し、神殿の上から飛び降りたならば、イエスは悪魔の手に落ちてしまう。そして、神に対して、イエスは告発されてしまうであろう。イエスは、悪魔の誘いに対して、何をもって対抗したのか。神の言葉である。

神の言葉は、聖書に記されている。聖書の言葉が神の言葉、神の意志である。イエスは、聖書の言葉を変えることなく、書かれているままに悪魔に告げている。つまり、書かれている言葉そのものが悪魔に対抗できる力の言葉だということである。人間の言葉であれば、悪魔に突っ込まれるであろう。ところが、悪魔は神の言葉を変えることも突っ込むこともできない。さらに、上手に神の言葉を使って、人間を動かそうとする。神の言葉を信頼するのではなく、神の言葉を利用する人間を作り出してしまう。悪魔は、神の言葉さえも利用して、人間に自らの存在証明をさせようとする。人間は、自らの信仰を悪魔に見せようとして、神を離れてしまう。これが、悪魔の巧みなところである。

自らの存在証明は、人に見せるものではない。ただ信じるだけである。人に見せようとするとき、我々は罪に陥ってしまう。神を離れてしまう。そうならないために、イエスは荒野において、悪魔と対峙することになった。イエスが信頼しているのは、神の言葉のみ。神の言葉をそのままに受け取り、信頼していることだけ。それゆえに、イエスは自分から動くことなく、悪魔は離れて行かざるを得なかった。悪魔が付け入る隙を与えないこと。それが、悪魔との関わり方である。

我々は、自分の力で、自分の頭で、自らの存在証明を行おうとしてしまう。自分がここにいて良いと、人間に認めてもらいたいと思ってしまう。そのような思いが、悪魔が我々に近づく機会を与えてしまう。誰からも認められなくても、わたしは神の息子、神の娘と信頼していれば良いだけなのだ。確かに、人間から認められることで良い仕事に就くことができるであろう。良い学校に入ることで、認められる道を進むことができると思うであろう。しかし、それもつかの間、我々はいつでも転落する危険にさらされている。そのようなとき、転落しても良いではないかと思えるほどの神への信頼があれば、揺さぶられることはない。転落に思えて、転落ではないのだということが分かれば、揺さぶられることはない。むしろ、その状態こそ、わたしの道なのだと喜び生きることができるであろう。そのあなたを支えるのは、神の言葉だけである。

我々は、自らの存在証明を必要とはしない。神がわたしを造り給うたと信じる信仰を与えられているのだから、それこそが存在証明なのである。神からいただく存在証明は信仰である。イエスは、この存在証明の源泉を神の言葉に置いている。それゆえに、イエスは神の言葉から離れることはなかった。神の言葉を離れては、わたしは生きることができないというところに、イエスは立っておられる。神の言葉こそが、わたしを支えると信じておられる。そのとおり、悪魔は神の言葉に対抗することができなかった。イエスは、自らの力を示すことによってではなく、神の言葉に信頼することによってのみ、存在を証明したのである。このような存在証明は、預言者たちにも共通するものである。

預言者たちは迫害された。彼らは、人々とは違う価値観に立っていたので、理解されることはなかった。イエスも人間とは違う価値観の中で生きておられる。神の息子であれば、何でもできるであろうと誘う悪魔に対して、自分のためには何もしない。自分の存在証明のためには何もしない。わたしの存在を証明してくださるのは神のみというところに立っておられる。世の人々の価値観は、自分の力を人々に示すことで存在証明を得られるというところにある。しかし、そのような存在証明はこの世の競争にさらされるとき、力無く落ちていくことにもなる。力の無い者には、存在証明がない、存在価値がないということになる。力が無ければ、役に立たなければ、お前はいなくて良いとなる。人の世話になっているだけなら、邪魔者だと言われる。ところが、神の世界にはさまざまな役割が存在している。周りの人間から、役に立たないと思われている存在であろうとも、存在している以上、神が存在価値を与えておられる。神が生かしておられる以上、存在価値がある。神が造ってくださった以上、存在価値がある。如何なる人間であろうとも、神の被造物であることが存在証明なのである。

そのような存在証明を獲得するためには、何も行う必要はない。ただ、神の言葉に信頼しているだけで良い。下手に動くがゆえに、悪魔の手に落ちる。動かず、神の言葉に信頼すること。それだけが、わたしを守る。それだけで、わたしは神のこども。それだけで、わたしは価値ある存在。この存在を、この場所に置いて、生かしてくださる神がおられる。この神を信頼することで、我々は揺さぶられることなく立つことができる。神の言葉への信仰だけが、我々の存在証明なのである。

イエスに悪魔が近づいたのも、自らの空腹を感じたときだった。空腹であるとき、我々は存在の不安に陥る。如何にして、自分の命を保つかと考える。イエスが「思い悩むな」という言葉の中でおっしゃっているように、食べることや着るものを持つことで、存在の不安は消えるように思える。ところが、それらは、この世の栄誉や地位や仕事と同じく、消えるものである。比較することで、不安に陥る。不安に陥るとき、どうするのか。イエスは、自らの空腹を満たすことで不安を解消することはなかった。神の言葉によって満たされることを求めた。満腹したところで、いずれ空腹になる。この繰り返しの中で、満腹だけになるならば、満足は薄れ、別の満足を求めることになる。神殿の上から飛び降りることによって、さらに危険な飛び降りを求める。悪魔にひれ伏して、世界すべてを手に入れても、悪魔を超えて神にならない限り満足しない。そして、どこまでも満足しない生が続いていく。これが、我々人間の罪の姿である。この罪から解放されるためには、神の言葉のみに従う信仰が必要なのである。神の言葉に満たされることが必要なのである。そのために、イエスは十字架を負ってくださった。

イエスは、十字架において、荒野の誘惑と同じように神の意志に従っている。ゲッセマネで祈られたときにも、ご自分の意志ではなく、神の意志が生じることを祈り求めた。それだけがイエスの存在証明だと祈り求めた。イエスの意志が完成するのではなく、神の意志が完成することを求めた。十字架は、その完成が神の力によって生じることを語っている。使徒パウロが言うように、信じない人間には愚かな言葉であり、愚かな十字架である。しかし、信じる者には神の力である。このような信仰は、通常の感覚からは生じない。むしろ、蔑まれ、貶められ、排除される存在においてこそ、起こされる。それゆえに、イエスは自分の十字架を取り、わたしに従えとおっしゃった。貶められること、排除されること、そこにおいて、我々は人間に頼るのではなく、神に頼る道が開かれていることを知る。イエスが十字架を通して、その道を開いてくださり、示してくださったことを知る。我々は、どんな状況に置かれたとしても、神の息子、神の娘。あなたを愛してくださるお方に造られた存在。この存在を否定できる者は誰もいない。悪魔さえも否定できない。

あなたを守り給うのは、神の言葉。神の言葉に信頼する信仰。神の意志に従う信仰。それだけが、あなたに与えられ、あなたをあなたとして生かす力である。この四旬節の間も、神の言葉に耳を開かれ、神の言葉をわたしの魂の糧として受け取って生きよう。あなたを愛し給うお方の言葉を聞く信仰こそ、あなたの存在を証明してくださる神の力である。

祈ります。

 

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