「完成を見る」

2022年3月13日(四旬節第2主日)
ルカによる福音書18章31節~43節

「見よ、わたしたちは上っていく、エルサレムへ。そして、完成されるであろう、人の子について預言者たちを通して書かれてしまっていることすべては」とイエスは弟子たちに言う。エルサレムへ上っていくのは、完成のためであると言う。預言者たちを用いて、神が書いてしまっているすべてのことが完成される。それがイエスの十字架を指し示していることは明らかである。ところが、イエスが語った言葉たちは、弟子たちから隠されていたために、彼らは認識できなかったと述べられている。イエスの言うことが分からなかったのである。

我々が何事かを認識することや理解すると言われることは、聞いた言葉であろうと経験した出来事であろうと、我々の意識が向いていないならば、受け入れることができない。我々の意識は、自分の好む事柄だけを受け入れる。それゆえに、好まない事柄は右の耳から左の耳へと通り抜けていく。わたしの魂にまで達するものは、わたしの意識が向いている事柄だけである。弟子たちの意識は、イエスの受難予告の言葉を受け入れたくないために、閉ざされていたのであろう。「これらの語られた言葉たちは、彼らから隠されていた」と述べられているのは、そのような意味である。

彼らは聞きたくないがゆえに、耳を閉ざした。もちろん、彼らが耳にしたことは確かである。しかし、耳にした言葉の表面だけは理解したが、真実の意味は彼らには隠されていたのである。そのように考えてみれば、隠されていたものを真実に受け取る姿が目の見えない人の癒しとして語られていると言えるであろう。目の見えない人はイエスに願う、「わたしが新たに見るように」と。アナブレポーという言葉が使われているが、この言葉はアナ「新たに」、「再び」という接頭辞と、ブレポー「見る」という動詞とでできている。「再び見る」、「新たに見る」という意味の言葉である。目の見えない人は、再び見ることを願ったのであろうが、それは「新たに見る」目を開いて欲しいということであった。そして、彼は信仰によって「新たに見る」目を開かれ、イエスに従った。

目の見えない人に向かって、イエスは言う。「新たに見よ。あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と。「新たに見る」ことがその人の「救い」だとイエスは言う。彼が新たに見たのは何か。十字架における完成である。それゆえに、彼はイエスに従ったのである。そして、最終的に完成し給う神に栄光を帰した。目の見えない人が救われるのは、完成を見ることによってであった。弟子たちが認識できなかった完成を、目の見えない人が見た。そこに、信仰が働いた。これが、今日我々に語られているイエスの御業である。従って、物理的な目が見えるか見えないかは問題ではない。「見えている」と思い込んでいるところに、真実を見ようとしない罪が働いているのである。それが弟子たちの姿であった。反対に、目の見えない人は物理的に見えないという状態にあるがゆえに、自分は見えていないと認識している。そして、「新たに見る」ことを、イエスに求めた。それゆえに、彼はイエスによって「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と言われたのである。つまり、見えないという認識において、見えるようにされるのである。見えているという認識においては、見えないままに留まる。これが原罪の働きである。

そうすると、目の見えない人は自らが見えていないのは原罪の働きによってだと認識したのであろうか。いや、彼とても原罪の働きによって、自分が真実を見えなくされているとは思っていなかった。しかし、物理的に見えないことに対して、何とか見えるようになりたいと願った。「新たに見る」ことをイエスに求めた。これは、彼自身の罪の認識ではなく、彼が見えないことを認めているがゆえに求めた癒しである。しかも、彼はイエスに求めた。それゆえに、イエスによって、彼自身のうちに自覚されてはいない信仰が認められたのである。

我々ルーテル教会の信仰においては、信仰とは我々のうちにおける神の活動である。目の見えない人は、その活動を理解してはいなかった。しかし、彼がイエスに求めるように働いた信仰は、神から彼に与えられた信仰であった。その信仰に従って、彼がイエスに求めたがゆえに、イエスはその従順さを認めて、「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と語ったのである。その信仰は「完成を見る」信仰であった。

イエスが最初におっしゃったように、「人の子について預言者たちを通して書かれてしまっていることすべては完成されるであろう」ということを目の見えない人が見た。それはすでに神によって書かれてしまっていることであった。弟子たちには「書かれてしまっている」ことが隠されていた。彼らの意識が閉じられていたからである。しかし、目の見えない人の意識は「見る」ことへと開かれていた。たとえそれが自分の見えない目が見えるようになることを求めていたとしても、「見る」ということへと彼の意識が向かっていた。弟子たちは、見たくないという方向へ向かっていた。この違いが、弟子たちと目の見えない人との違いである。そして、完成を見るのは、見ようとする意識が起こされているか否かなのである。

目の見えない人は、見ようとした。そして、イエスによって、見えるようにされた。しかも、イエスご自身は何もしていない。ただ「新たに見よ」とおっしゃっただけ。そして、「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と告げただけである。それだけで、すべてが開かれた。彼の目が開かれた。そして、世界は、彼に向かって開かれた。彼は、十字架において完成されてしまっている世界へと入っていったのである。それが、彼が「救われてしまっている」とイエスが言う意味なのである。この現在完了形が語っているのは、神の現実が彼の上に完了してしまっていること、完成してしまっていることである。従って、彼は十字架以前に、十字架の結果を受け取っているのである。これがイエスが彼に与えた宣言「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」という言葉の意味である。彼はイエスにおける完成を見ている。時間的には未来に属する事柄が、彼の現在に存在している。これが信仰の不思議な側面である。信仰は時間を超え、空間を超える。終末を今現在生きるのが、信仰なのである。それゆえに、信仰者は未来を生きている。未来が、信仰者の現在に入り込んで来ている。神によって与えられた信仰とは、時空間を超えるのである。

信仰を与えられているあなたは人間的な時空間を超えて生きている。未だ終末に至っていない現在において、終末を生きている。神の前で生きている。神の前で、神を讃美している。それが完成を見ている信仰者の生なのである。目の見えない人がここに至っている。これを覆すことはできない。誰にもできない。彼は、新たな世界を見て、新たな世界で生きている。彼の現在は終末に接続している現在である。目が見えなかった彼が、今は見える。神の世界が見える。神の完成してくださっている世界が見える。それが、彼の救いである。この救いへと入れるのは、イエスの宣言。「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」という宣言。この宣言は、十字架の上から発せられている。完成した十字架の上から宣言されている。四旬節を歩んでいる我々の上には、完成した十字架の言葉が降っている。あの十字架から神の愚かさが聞こえる。神は愚かと言われようとも、あなたを救いたいと願っている。罪人であり、悔い改めもままならぬあなたを救いたいと願っている。神のこの願いが十字架を起こし給うた。神が起こし給うた十字架があなたを救ってしまっている。十字架から来たる信仰が、あなたを包んでいる。我々は、ただ信じるだけ。見ようとして見るだけ。聞こうとして聞くだけ。我々の意識が、神に、神の言葉に向かっているならば、我々は救われてしまっている。そして、完成を見ている。イエスの十字架における完成を見ている。あなたを救いたいと願ってくださる神の愛を受け取っている。十字架を見上げるあなたは神の愛のうちにある。

祈ります。

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