「猶予期間」

2022年3月20日(四旬節第3主日)
ルカによる福音書13章1節-9節

「もし、あなたがたが悔い改めなければ、あなたがたすべては同じように滅びるであろう」とイエスは言う。悔い改めは現在のことであり、滅びは将来のことである。同じように、いちじくの木のたとえでも、「主よ、それを赦してください、またこの一年も」と園丁は言い、「しかし、もしそうならなければ、あなたはそれを切り倒すでしょう」と言う。赦しは現在のことであり、切り倒しは一年後の未来の話である。悔い改めない現在が将来の滅びに至る。将来の切り倒しは、一年の猶予期間の果てに来る。罪の赦しとは、猶予期間なのであろうか。完全に罪を赦されるのではないのだろうか。もちろん、悔い改めが完全であれば、赦しも完全であろう。一年の猶予の後、実がならなければ切り倒されるであろう。しかし、実がなるのであれば、切り倒されることはない。実がなることで完全な未来を与えられると言える。では、悔い改めの完全さは、現在にどのように現れるのだろうか。

この言葉をイエスが語った相手は、権力者の恣意によって殺害された人たち、不幸にも事故に遭って死んだ人たちについて、彼らの罪を論じ合っていたのであろう。それゆえに、他人事のように論じ合う人たちに対して、他人のことを云々するよりも自分自身のことを顧み、悔い改めなさいとイエスはおっしゃった。「同じように滅びる」というイエスの言葉を聞けば、死んだ人たちはやはり罪のゆえに滅びたと考えているかのように思える。ところが、イエスは、あなたがたが「彼らは罪によって滅びたのだ」と考えて論じ合っているならば、同じように滅びるであろうとおっしゃったのである。あなたがたが罪による滅びを云々するならば、まずは自らを顧みよということである。そして、いちじくの木のたとえを語られた。あなたがたも、実のならないいちじくの木と同じく、一年の猶予期間をいただいている者だと思いなさいということである。

一年経って、ダメだとしても、「ご主人様、まことに申し訳ないのですが、あと一年、もう一年だけ待ってください」とお願いすれば、赦してくださるであろう、などと考えてはならないということでもある。園丁は、この一年全力を注いで、いちじくの木が実をもたらすように働く覚悟である。このような覚悟をもって、「あと一年」と願っている。彼はあわよくばと願っているのではない。。命がけの懇願である。自分の責任を引き受ける覚悟をもった懇願である。これはキリストの十字架である。

一年後に「あと一年」と繰り返すとすれば、自らの一年を無かったことにしてしまうことになる。それゆえに、「しかし、もしそうならなければ、あなたはそれを切り倒すでしょう」という言葉でイエスのたとえは終わっている。切り倒すことも致し方ないと終わっている。切り倒して良いのだと主人に言うのか。あるいは、切り倒すのは主人の責任だと責任逃れをしているのか。これをどう考えるべきなのであろうか。

イエスは愛のお方だと我々は考えている。愛のお方が、最終的に裁きで終わるたとえを語るのであろうか。もちろん、「もし、そうならなければ」とイエスはおっしゃっている。「もし」である。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。ならないならば、切り倒すでしょう。つまり、最終的な裁きは必ずあると語っている。しかし、猶予期間を懇願する。自分の責任において懇願する。これに対して、主人が園丁の願いを聞き入れたかどうかは語られることはない。イエスのたとえは、問いなのである。猶予期間をどのように生きるかは、その人の責任だということである。そして、悔い改めとは、猶予期間にしか可能ではないということである。期限が来てしまっては、切り倒されるだけだからである。この猶予期間をいかに生きるのか。これが今日イエスが提示することである。

人の不幸を見て、自分たちは大丈夫だと思う考えから抜け出すことができない人々。自分は、罪を犯していないから、大丈夫だと思うところを離れることができない人々。そのような人々こそ、猶予期間を蔑ろにしているのだと諭しているイエス。この猶予期間を悔い改めて生きるのか。まだ時間があると思って生きるのか。先延ばしにするのか。今を生きるのか。これがイエスの問いである。それゆえに、悔い改めは現在であり、滅びは将来なのである。

悔い改めを今生きていないならば、将来は滅びるであろうとイエスは言う。これでは、神の愛はどこにあるのかと思ってしまう。イエスは愛のお方ではないのかと思ってしまう。しかし、愛は責任を負う。裁きを自らに引き受ける。人々が滅びに至って欲しくないがゆえに、イエスはこのたとえを語った。自分自身の責任において生きる園丁の姿を通して、ご自身の十字架を語った。

いちじくの木が悔い改めるだろうか。自然には、時がある。その木にはその木の時間がある。それでも、実らない木もある。それでは、植えられたいちじくの木は切り倒される。それも致し方ないと諦めるのか。それとも自ら責任を感じながら、一年を懸命に生きるのか。将来の救いを望み見ながら、今を生きるのか。園丁は、主人の裁きの言葉に対して、諦めることなく、「あと一年」と言うのだ。この心に守られているのはいちじくの木。それでも、いちじくの木はそんなこととはつゆ知らず、ただ自分の命を生きていくのではないかと思うかもしれない。しかし、植物でも愛されていること、猶予期間を与えられていることを知る。自分のために、肥料をやり、根が栄養を取りやすいようにしてくれる園丁の心を知る。そのように愛されたいちじくの木が実らないはずはない。園丁はそのように信じて、主人を説得する。ここにあるのは、神の裁きと愛の両立である。

主人は、義である神が裁きの神であることを語っている。神の義を変えることなく、愛を与えるのは園丁であるキリスト。キリストの労苦によって、我々は猶予期間を与えられているのである。キリストの労苦である十字架によって、我々は赦されている、あと一年生きることを。そのようなキリストの愛は、神の義を守る愛でもある。裁き主である神の義しさを守るのが、園丁であるキリスト。裁きがなければ、神は義しいとは言えない。しかし、すべての人を救いたいと願う神であっても、ご自身の義を捨てることはできない。神が義を捨てれば、神ではない。義しさが失われれば、混乱が生じる。世の中は混沌としてくる。義を守る唯一の手段は、義を捨てることではなく、義を貫徹させること。そのために、神はキリストを地上にお遣わしになった。キリストの十字架において、神は義を貫徹し、愛する人間を救済する。これが、いちじくの木が語っていることである。

もちろん、園丁の労苦に応えて、いちじくの木が実をつけるかどうかは分からない。実をつけないこともあるであろう。それでも、園丁は賭けてみる。実をつけることに賭けてみる。自分の一年の労苦をかけて、いちじくの木に猶予期間を与える。いちじくの木が悔い改めて、実をつけることができるようにと猶予期間を与える。これがキリストの十字架であるならば、我々はキリストの十字架において救われているのであろうか。猶予期間を与えられているだけではないのか。終末までの猶予期間を与えられているだけではないのか。そうであれば、終末において、裁かれることもあり得る。そのときには、キリストの労苦は無駄になる。キリストは、無駄に思える努力を神に献げるのか。そうである。キリストの十字架は、無駄になるかもしれない労苦を献げてもなお、実をつけてほしいと願う園丁と同じである。

我々は今日、イエスに問われている。あなたが今を悔い改めて生きるために、わたしはあの十字架の上で苦しむのだと。あなたが悔い改めることなく、切り倒されることになるかもしれない。わたしの労苦は無駄だったということになるかもしれない。それでも、わたしは十字架を引き受けるのだ。あなたのために、無駄であろうとも引き受けるのだと。

我々のために十字架を引き受け給うキリストによって、猶予期間が与えられている。キリストの愛をいただいて、悔い改めを今生きていこう。

祈ります。

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