「神の相応しい時」

2022年4月3日(四旬節第5主日)
ルカによる福音書20章9節~19節

「彼は来るであろう。そして、滅ぼすであろう、このような農夫たちを。そして、与えるであろう、ぶどう園を、別の人たちに」とイエスのたとえは終わっている。神の時に逆らう者は滅ぼされるということである。

たとえの中で、ぶどう園の主人は「相応しい十分な時間、旅に出た」と言われている。旅というものは、時間を決めない。旅は、ぶらぶらするもの。時間を決めるのは旅ではない。十分な時間、巡り歩いたのち、戻ってくるのが旅である。この主人は、旅の途中で、相応しい時に下僕を派遣して、ぶどうの収穫を受け取ろうとした。しかし、農夫たちは、下僕たちを追い返し、仕舞いには主人の愛する息子を殺害してしまった。農夫たちは、主人からぶどう園を借り受けて、世話をする契約をしていた。にも関わらず、彼らは契約を破って、収穫を主人に渡すことを拒否した。すべてを自分たちのものにするために、息子まで殺害した。当時の社会においては、農夫たちの反逆が起こっていたとも言われている。それはぶどう園を所有する主人への反逆であり、農民一揆のようなものである。農夫たちが搾取されていた状況が反映したたとえであると言える。しかし、ここでイエスは、農夫の側ではなく、主人の側でたとえを語っている。農夫たちの暴力行為が息子の殺害に至るたとえを語っている。このたとえを聞いて、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちのことをたとえたのだと思い、イエスを捕まえようと考えたが、民を恐れてできなかったと記されている。このたとえは、何を語っているのであろうか。

律法学者たちが理解したように、彼らのことなのであろうか。それとも、イスラエルの民のことなのであろうか。旧約聖書では、ぶどう園はイスラエルという国にたとえられる。預言者たちは、ぶどう園を造った神に言及している。とすれば、ぶどう園の主人は神である。神が旅をするとは考えられないとしても、神には神の時間があり、神の時は神にとっ
て相応しい時である。これをカイロスというギリシア語で表している。このカイロスという言葉が、10節に使われている。「相応しい時(カイロス)に、彼は農夫たちのところへ下僕を派遣した」と。「収穫の時になったので」と新共同訳は訳しているが、これは「カイロスに」という一語だけである。つまり、ここで使われているカイロスとは収穫に相応しい時のことである。収穫は相応しい時に行われる。それゆえに、主人はそのカイロスに下僕を派遣した。しかし、そのカイロスに逆らって、農夫たちは収穫を渡さなかった。ここで重要なのは、カイロスを拒否する農夫である。この農夫がイスラエルの民であり、その指導者である律法学者や祭司長たちが民の代表である。だから、彼らは自分たちのことをイエスがたとえたと感じたのである。

カイロスの拒否は、神の相応しい時を拒否することである。カイロスは、神が相応しいと判断した時だから、人間にとっては突然のことのように思えるであろう。しかし、神にとっての相応しい時はその時なのである。これを拒否するということは、神の時を拒否することである。さらに続いて、イエスが語る「隅の親石」という詩編118編22節のみことばが語っているのも神の時である。

人間が捨てた石が、家が完成するときになって、再び拾い上げられる。そのときにならなければ、人間には分からない。その石が必要な石であったことが、人間には分からない。家が完成する時も、神の相応しい時であり、その時に至ってようやく見えてくるものがあるということである。ようやく見えてくるとは言え、存在しないものが見えるはずはない。家造りたちが捨てた石も見えていた石である。見えていたのに、彼らにはこの石が必要だとは思えなかった。だからこそ、彼らは捨てた。ところが、神の相応しい時が来たときに、自分たちが捨てた石が家を完成するために相応しい石だったのだと気づいた。その石を拾うのは家造りたちであろうが、相応しさに気づかせたのは神である。そのとき、家造りたちは神の指し示す石を発見し、素直に従った。自分たちが必要ないものとして捨てた石を拾うことになった。人間の判断は刹那的であり、永遠を見通すことができないということである。

さらに、人間の判断が神の意志を受け入れるには、時間が必要だということでもある。我々は、目の前のことにこだわって、永遠を見失う。今とりあえず形が整えば良いと思ってしまう。こんな石は必要ないと捨ててしまう。目の前のことだけですべてが進行すると思い込んでいる。自分たちの判断では測ることができない神の意志があることを忘れている。神の見えない御手があることを忘れている。神の相応しい時が来たることも忘れている。目の前のことだけに捕らわれていると、神の時を拒否することにもなる。これが律法学者や祭司長たちの思考であった。だからこそ、彼らは目の前の民の反応を恐れて、イエスに手を下すことができなかったのである。

神の相応しい時はいつ来るのかは分からない。しかし、必ず来る。その時に向けて、我々は生きている。その時を迎えるように生きている。我々が考えもしなかった時に、神の時はやってくるであろう。その迎えは、今目の前にあることを捨てなければ可能にはならない。神の眼差しは、我々人間とは別のところに注がれている。思いもかけないところに注がれている。目の前のことにこだわっている間に、神の時は刻々と迫っている。そして、ついに来たったとき、我々は慌てふためく。農夫たちも、主人の下僕が来るとは思ってもいなかったのかもしれない。しかし、相応しい時にやって来た下僕。この下僕を拒否した農夫たち。突然やって来たのだから、彼らには備えがなく、拒否することしかできなかったのであろうか。収穫したものの中から主人のために渡せば良かったのにとも思う。ところが、彼らはそれを拒否した。そして、最終的に自らを滅びに定めてしまった。

このたとえには救いはない。滅びしかない。もちろん、彼らに貸していたぶどう園は別の人たちに貸し与えられた。この別の人たちはどこにいたのか。ぶどう園を貸し与えられていなかった人たちは、ぶどう園の外にいた人たちであろう。彼らは、別の人たちとしか語られていないのだから、ぶどう園の外にいて、何もしていなかったのかもしれない。そのような人たちに与えられたぶどう園。だとすれば、ぶどう園の外に投げ出され、殺害された息子と同じような存在なのかも知れない。既得権益を得ている人たちから排除され、仲間に入れてもらえず、食べるに事欠く人たちだったのかも知れない。ぶどう園の外の人たち、別の人たちは、ぶどう園の外で殺害された息子を葬ったのかも知れない。

これらのことは、何も語られてはいないが、恐らく十字架で殺されたイエスを葬った人たちも別の人たちなのではないだろうか。その人たちは、ぶどう園の主人からすれば、相応しい時を受け入れた人たちであろう。排除されることを受け入れて生きていた。捨てられていることを受け入れて生きていた。そして、神の相応しい時に拾い上げられた石のように、彼らも拾い上げられた。これがイエスの弟子たちに続くキリスト者たちのことであろう。捨てられた石。排除された石。見捨てられた石。しかし、神は相応しい時に拾い上げてくださる。たとえ、見捨てられていたとしても、神は見ておられる。相応しい時に、家の完成のために用いようと、見ておられる。それがキリスト者。拾い上げられる者たち。
我々キリスト者は、この世から見捨てられ、排除され、捨てられた存在。その一人ひとりを、神は相応しい時に拾い上げてくださった。役に立たない石として、捨てられたとしても、神は用いる。神が相応しい時に用いる。それが、我々一人ひとり。我々キリスト者。キリストの十字架に従う者たち。神の相応しい時に、いつでも準備のできている者たち。如何なることがあろうとも慌てふためくことなく、神の意志に従順に従う者たち。イエスは、このような我々のために、殺されてもなお復活し給うお方として、ご自身を現してくださる。イエスの体と血に与り、イエスのいのちに満たされて、神の相応しい時に従って生きて行こう。あなたは別の人たちなのだ。

祈ります。

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