「完全なる破壊」

2022年4月10日(枝の主日)
ルカによる福音書19章28節~48節

「もし、あなたが認識していたなら、平和へ向かう事柄たちを」とイエスはエルサレムのために嘆いている。群衆の叫びを止めようとしたファリサイ派の人たちに向かって、イエスは言った。「もし、この人たちが沈黙するならば、石たちが叫ぶであろう」と。そして、エルサレムの哀れさを嘆いて言う。「平和へ向かう事柄たちをあなたが認識していたなら」と。ファリサイ派だけではなく、エルサレムに集っている人々を嘆いている。この嘆きは「平和へ向かう事柄たちを認識していない」ことへの嘆きである。認識していないことの結果として何が起こるかをイエスは述べる。「あなたのうちの石の上に石が残ることはない」と。これは完全なる破壊を意味している。積み上げられていた石組みが破壊され、ひとつとして石の上に石が残ることはない。完全に破壊される神殿の石組み。それはまた、誰一人として、誰かの上に存在することはないということでもあろう。

神殿が完全に破壊されたとき、イスラエルの民として集まる場所もなくなる。どこに向かって祈れば良いのかも分からなくなる。完全に破壊された神殿は、もはや祈りの家ではなくなる。祈りの家がなくなるとき、民はどこに向かって、どこで祈るのか。一人ひとり、自分の奥まった部屋に入って祈る。それだけが神とのつながりの唯一の場所となる。これは悪いことなのか。善いことなのか。国にとっては、悲しみかも知れない。しかし、一人ひとりにとっては真実の祈りが起こされる時ではないか。神殿の回復を祈る祈りが起こされるであろう。一人ひとりが、神の霊が宿る神殿として生きるようになるであろう。そうであれば、一人ひとりにとっては幸いなことではないか。

「わたしの家は、祈りの家として存在するであろう」と歌われているイザヤ書56章7節の言葉は未来形である。神殿は祈りの家として将来再建されるということであろうか。いや、祈りの家は一人ひとりのうちに存在するであろうということではないか。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、神ヤーウェに向かって祈る一人ひとりのうちに祈りの家は存在するであろう。そこにおいて、神ヤーウェは一人ひとりの祈り、一人ひとりの叫びを聞いてくださる。神殿を組み立てていた石が叫ぶとすれば、一人ひとりの叫びの集合が神殿である。一人ひとりの祈りの集合が神殿である。誰も上に立つ者はなく、ただ神ヤーウェだけが上におられる。一人ひとりが神ヤーウェに祈る。それが完全なる破壊の結果、民にもたらされることであろう。

もちろん、イエスは完全なる破壊に至らないために「平和へ向かう事柄たちの認識」を持っていたならば、と嘆かれた。この認識を持っていたならば、破壊には至らないと嘆く。しかし、この認識を持っていたならば、強盗の巣窟のような神殿にはなっていなかったであろう。エルサレムは強盗の巣窟となり、民から金品を搾取する機関となってしまった。このようなエルサレムを嘆いている。それでも、神による完全な破壊が生じるとき、すべては一新される。すべては神が望まれたように、一人ひとりの祈りの家のために破壊される。祈りの家の本質が現れる。完全なる破壊によって現れる。我々人間の目には、ただの敗北。国民の立場からは、来て欲しくない破滅。それでも、来てしまう。この世のものはいずれ朽ちる。いずれ壊れる。いずれ失われる。そして、新しいものが生じる。これが世の常。過去にしがみついている限り、我々は完全なる破壊と共に滅びる。新しいものが来たったとき、一つの石であることが回復される。一つの石であるわたしが神と結ばれる。こうして、新たな祈りの家、真実な祈りの家が生じる。イエスは、そのために、エルサレムに入り、神殿を浄めた。

イエスの嘆きは、「神の訪れのカイロスを認識する」ことができない集団への嘆き。破壊され、一人にされなければ、神のカイロスを認識できない。しかし、認識する一人が起こされる。神のカイロス。神が介入する時。その一瞬時を認識する者には、すべての時間が神の時である。自分に都合の悪いときも、自分だけが幸いだと思うときも、他者だけに幸いが来ていると妬むときも、すべての時が神のカイロスであると分かる。このように認識する民が起こされるならば、すべての時が神のうちで生きる。至る所に神のカイロスが満ちている。そのような世界を認識する者が、神の民である。

イエスが弟子たちを村に派遣したときも、子ロバを解くことを許した子ロバの主人たち。彼らは複数人でロバを所有していたのであろう。それゆえに、彼らには、自分の所有している世界に介入する神のカイロスが分かったのであろうか。別の主人がおられると、彼らは弟子たちの行為を許した。これは「平和へ向かう事柄」の一つなのだろうか。自分たちの支配の上におられるお方の介入を受け入れること。それが「平和へ向かう事柄」であろう。如何なる時も神の介入の時、カイロスであると受け入れる。自分たちの計画を差し止める勇気を持つこと。静まって、神を知ること。それが我々人間の救いの事柄であると、イザヤは語っていた。人間的に対抗することなく、静まって祈ること。それこそが、真実に祈りである。そこにこそ、神ヤーウェの祈りの家が存在するであろう。この祈りの家の回復のために、イエスは完全なる破壊を告げる。その破壊は、イエスご自身の破壊でもある。十字架で殺害される破壊でもある。

イエスの十字架は、完全なる殺害であり、イエスは十字架の上で完全に破壊された。真実の完全な破壊を受け入れたとき、完全なる復活も生じる。神によって破壊されることを受け入れるならば、神によって起こされる復活も生じる。これがイエスの十字架の意味である。我々は、破壊されることを受け入れない。それは人間によって破壊され、自分が負けると考えるからであろう。しかし、神によって破壊されると信じる者は、受け入れざるを得ない。神の破壊は完全であり、神の復活も完全である。完全なるものは神の許にしかない。これを信じ、受け入れる者は、神によって生きる。

エルサレムに入城したイエスは、神の時カイロスに入城した。神の時カイロスに十字架に架けられた。神の意志によって十字架に架けられた。イエスは、神のカイロスを受け入れることによって、神の意志がなることを知っておられる。イエスにとっての苦しみは、信じる者たちの喜びとなる。イエスにとっての死は、信じる者たちのいのちとなる。イエスにとっての破壊は、信じる者たちが起こされる出来事となる。

イエスは、ご自身の破壊を通して、神の時カイロスを如何に受け入れ、生きるのかをこの世界に示してくださった。自分を捨てることによって、自分の魂を守る道を示してくださった。わたしの魂はわたしが守るのではない。神が守り給う。神が回復してくださる。神が起こしてくださる。あなたは、神の力によって壊され、神の力によって起こされる。コヘレトの言葉にもある通り、破壊する時も建てる時も神の時。殺す時も癒す時も神の時。愛する時も憎む時も神の時。戦いの時も平和の時も神の時。預言者エレミヤも言う。神ヤーウェが「わたしは建てたものを壊し、植えたものを抜く」と言われると。

我々が生きるすべての時間の中に、神の介入の時カイロスがある。如何なる苦しみにおいても、我々は神の時の中で苦しむ。神の時の中で忍耐し、神の時の中で喜び踊る。神による完全なる破壊が来たるとき、我々は完全なる復活にも至る。エルサレムを嘆くイエスは、神の訪れのカイロスを認識するようにと嘆いている。イエスの嘆きの中に、イエスが見給う善き未来がある。

その未来は今なのだとイエスは見ておられる。ご自身が十字架を引き受ける時にも今なのだと見ておられる。我々は、イエスの見給う世界を見るために招かれている者たち。イエスと共に、自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従って行こう。イエスの道は苦難の道。しかし、平和へ向かう事柄を認識する道。神の完全なる破壊の果てに来たる祈りの道。あなたの上に神のカイロスは訪れている。

祈ります。

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