「わたしという存在」

2022年4月13日(聖週水曜日)
マタイによる福音書26章14節~25節

「あなたがたは、わたしに何を与えることを意志していますか。ちょうど、わたしがあなたがたに彼を引き渡すと同じように」とユダは祭司長たちに言う。ユダは自ら「彼を引き渡す」と言った。にも関わらず、「あなたがたのうちの一人がわたしを引き渡すであろう」と言うイエスに対しては、「まさかわたしではないですよね」と答える。他の弟子たちと同じ言葉で答える。イエスは彼に言う。「あなたが言っている」と。これは、祭司長たちに「わたしがあなたがたに彼を引き渡す」と言っている「あなたが言っている」のだ、という意味であろう。イエスは、ユダに対して、自分自身の内的な自己同一性を問うているのではないのか。一方では、祭司長たちに「引き渡す」と言い、他方では、イエスに対して「わたしではないですよね」と言う。彼の言葉のどちらが本当のユダなのか。どちらも本当のユダである。

我々人間は、二つの自分を使い分ける。あちらとこちらで、違う自分がいる。空気を読んでいる。周りに合わせている。しかし、イエスはユダが祭司長たちに何を語ったのかを知っている。そのあなたが、自分自身のうちで自己同一性をどうやって保つのかと問うている。わたしという存在の同一性はどこにあるのか。

祭司長たちに「引き渡す」と言うユダと、イエスに「わたしではないですよね」と言うユダ。相反するユダが、ユダの中に存在している。ユダは、自己のうちで分裂しているのか。こちらではこう言い、あちらではああ言う。それがユダであるとすれば、ユダは自分の都合で言葉を変えるような存在だということになる。我々自身もおなじである。ユダ自身も自分が何者であるかを把握することができない。なぜなら、状況に応じて自分の言うことが変わるからである。

このような自己を誰もが持っている。イエスに従うと言いながら、イエスに従えない自分がいる。イエスに従うと言いながら、イエスを引き渡すと言うとすれば、ユダはイエスに従っているのか、捨てているのか。彼自身において同一性を保持しているのは、状況に応じて自分を変えて見せるという同一性である。それがユダであり、わたしである。状況に応じ、相手に応じて、「自分を変える」という同一の視点で生きている。これも自己同一性ではないのか。そのようなわたしとはいったい何者なのか。ユダ自身は、自分を何者として生きているのか。

我々人間は、いつもこのようである。状況によって自分を変えて行くとすれば、自分を見失っていく。いや、見失っているがゆえに、我々は罪人なのである。このような自己同一性の喪失に対して、イエスは「彼にとって、それは良いものとして存在した。もし、この人間が生まれなかったならば。」と言う。人間として生まれなかったならば、彼はイエスの十字架の死の後で、自己同一性に悩む必要はなかった。ユダは、自分自身に悩み、苦しむことになったがゆえに、自殺してしまったとマタイ27章5節には述べられている。イエスはそれをご存知で「生まれなかったならば、それは良いものとして存在した」とおっしゃったのである。それは、ユダ自身の苦しみを知るイエスの言葉である。ユダが苦しむことを予見して、このように語られた。知っているとは言え、イエスが同じことをするわけではない。そんなことをする人間の罪深さだけではなく、哀れさを思うイエスであるが、またそのようなことを行わないようにと勧める言葉でもある。「あなたが言っている」とユダに言うイエスは、どちらの言葉もあなたが言ったのだと述べている。それでもなお、ユダは認識できないままに、「引き渡し」を実行してしまった。分裂した自己に振り回されるユダ。このような姿を端から見て、批判することは誰にでもできる。しかし、このわたしがユダの立場であればどうだろうか。

イエスは、ユダと違い、自己同一性を生きている。それゆえに、イエスはどのような状況にあっても同じイエスである。その同一性からの言葉は、受け取る側の状況によって、受け取り方が違ってくるというに過ぎない。最初にイエスを受け入れ、喜んで耳を傾けていた民衆は、最後にはイエスを拒否し、十字架を要求する群衆に変貌する。同じ生き方を貫いているイエスは変わりなくイエスである。そのイエスの言葉を聞く民衆がイエスを拒否する群衆となるのは、彼らの利害が変化したからである。祭司長や律法学者たちのようなユダヤ教指導層によって扇動され、自らの利益を守る方向へ向き直った群衆。結局、民衆も自己を見失っているユダと同じなのである。

我々人間は、いつもこのようである。状況に左右されながら、自分の利益になるように生きる。信じていることさえも、利益のために捨てる。信じて従ってきたイエスさえも捨てる。それは、イエスがおっしゃった自分を捨てることなのだろうか。いや、状況に応じて様変わりする自分自身を捨てるということが、イエスがおっしゃった自分を捨てることではないのか。そうであれば、様変わりしない自分自身を保つことが自分を捨てることではないか。それは、神の意志に従うということである。そのとき、我々は自分自身を失うことはない。神が守り給う自分を保つことができる。どのような利害が我々を誘ったとしても、神の意志のみに膠着すること、それが自分を捨てることである。そのとき、我々は神の言葉によって生きていると言える。

荒野の誘惑において、イエスが悪魔に答えた言葉、「人は神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」というみことばの意味は、自分の都合で石をパンに変えるということへの否として語られた。神の言葉のみに膠着し、自分の状況を自分の都合の良いように変えることはしないというイエスの自己同一性の表明であった。つまり、イエスの自己同一性は神の意志、神の言葉のみにかかっていると述べていたのである。イエスがこのように生きた果てに、十字架が存在する。その十字架を避けるために、イエスは自己同一性を放棄することはしない。十字架に架かるとしても、神の言葉に従う自己を見失うことはない。そのようなイエスの自己は、神の言葉の内に存在している。一方で、ユダの自己は、どこに存在しているのか。

ユダは、神の時カイロスを、自分に都合の良い時が来るようにと探していたと言われている。「イエスを引き渡すそうと、良い機会をねらっていた」と述べられているのはそのようなことである。ユダは、神の時に従うのではなく、自分の都合に合う神の時を探していた。これが、彼の自己同一性を失った結果であり、自己同一性を失う原因でもある。

ユダがイエスを引き渡すのは、イエスへの失望が原因ではないかと言われたり、十字架に架けられるような状況に置かれればイエスが本当のメシアとしての姿を現すと考えたからではないかと言われたりもする。その意図は分からない。しかし、明白なことは、ユダが祭司長たちの前と、イエスの前で違う自分を生きようとしているということである。これがユダの自己存在の喪失を招いている。そのような存在は、生まれない方が良かったと言われるのは当然である。自分を見失っているならば、自分がないのだから、生まれても虚しいだけである。自分自身として虚しいだけである。そのユダが感じるであろう虚しさを哀れみ、嘆いているイエスである。

我々は、ユダが特別悪い人間だと思ってはならない。このわたしがユダなのだと思わなければならない。このわたしが自分自身を見失っていることを思わなければならない。神が造り給うたわたしという存在の自己は、神のものである。神の前に生きるように造られたわたしである。アダムとエヴァの堕罪の結果、我々は神の前に生きる道を見失った。ユダはその象徴的存在。そして、そのようなユダによって、イエスの十字架は立てられる。ユダを用いたのは神。ユダは必要な存在だったのか。自己を見失った存在を引き受けるために必要だった。イエスは、その人の罪を引き受け、十字架に架かった。我々は、わたしの罪を引き受けてくださったイエスの十字架であることを忘れてはならない。自らの哀れさを思いつつ、十字架を見上げて生きて行こう。

祈ります。

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