「新しい契約」

2022年4月14日(聖週木曜日)
ルカによる福音書22章7節~20節

「神の国が来ないうちは、わたしは今から決して飲まない、ぶどうの実りからは」とイエスは言う。神の国が来たとき、イエスはぶどうの実りからの飲み物を飲むのであろうか。神の国では飲み食いは必要ないのではないか。使徒パウロはローマの信徒への手紙14章17節で言っている。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と。そうであれば、神の国が来たならば、飲むであろうという意味ではないと思える。むしろ、神の国を来たらせるための決意を表している言葉ではないだろうか。イエスご自身は、ご自身の体を食べる必要はないし、ご自身の血を飲むことはないからである。もちろん、ぶどう酒と種なしのパンで過越を祝う必要もない。イエスは、ご自身の血を契約の血として流し給うお方だからである。

この契約は、誰と誰との契約か。神と人間との契約である。しかし、旧約聖書において、人間の側から神と契約を結ぶということはない。神が一方的に人間と契約を結ぶのであって、人間が神に契約を申し出るということはない。従って、イエスご自身は人間と契約を結ぶ神だということである。イエスの契約の血は、神として人間と結ぶ契約の血である。それでもなお、血が注がれる契約は人間として流す必要がある。それゆえに、イエスは人間として血を流す。それが十字架である。

十字架は人間が架けられるもの。神を十字架に架けることはない。人間イエスが十字架で死ぬ。神が死ぬことはない。ところが、十字架で死んだのは契約を結ぶ主体である神としてのイエスである。この相矛盾する姿がイエスのうちに一体となっている。これが、十字架が神の意志でありながら、人間の罪であることを意味しているとも言える。

イエスはご自身の受難が過越の成就であり、新しい契約の締結であると述べておられる。過越は、十字架において満たされる。満たされるものは、神の救いの意志であり、神の契約の意志である。神の国が来たるときに満たされるとすれば、イエスの十字架は神の国の始まりであり、神の国そのものであるということだろうか。過越を満たす、過越を成就するということは、そのような意味ではないだろうか。

ルカ福音書において、イエスは神の意志と契約の満たしを、ご自身が担う十字架だと認識しておられる。それゆえに、その前に弟子たちと地上における過越を食べることを望んでおられた。過越を食べるたびに、イエスご自身の最後の過越を思い起こすように設定して行かれた。ご自身の血を飲むように与え給う杯は、神の国を待望しつつ弟子たちに与えた杯を新しい契約の杯として設定して行かれた。聖餐の度に、我々はイエスの最後の意志を想い起こす。イエスが、ご自身を我々に与え、ご自身の血によって契約を立て給うたことを想い起こす。イエスの最後の意志は、変わりなく、神の国が来たるまで続いていく。従って、イエスの意志が変わりなく続くだけではなく、その意志を聞き続ける我々のうちに満たされていくであろう。神の国が来たるとき、イエスの最後の意志が充ち溢れる。我々がそのうちに生きるようになる意志が充ち溢れる。これがイエスの最後の意志である。

イエスが満たそうとしておられる過越は、出エジプトの際に現された神の救いの御業。小羊の血を塗った家だけを災いが過ぎ越したことを記念する祭が過越祭。過越の食事をするということは、神の救いの御業を想い起こすことであった。想い起こすことによって、イスラエルの民は自らの救いを確信し、救いの中に入れられた者として如何に生きるかを想い起こした。それは、十戒に代表される神の意志に従って生きることであった。

過越を弟子たちと共に食べるイエスもまた、神として弟子たちに想い起こすべきしるしを残して行かれた。過越とは、イスラエルの民が良い人間だったから過ぎ越されたのではない。イスラエルが苦しみ叫んだがゆえに、神は救いの手を差し伸べてくださった。その救いの手を握り返すことが、神の意志に従うことであった。神が命じられたように、鴨居に小羊の血を塗ることであった。これに従うイスラエルを神ヤーウェは過ぎ越して行かれ、災いが降らないようにしてくださった。彼らの救いは、神の言葉に従うことで実現した。これと同じく、イエスによる新しい過越もまた、神の言葉に従う民の上に実現するであろう。

イエスもまた、神の言葉に従って生きた。十字架の死に至るまで、神の言葉に従い続けた。神の言葉のみが、イエスの意志であった。自らの意志の実現を望むのではなく、神の意志の実現を望むイエス。イエスが弟子たちに最後に残して行かれた意志もまた、神の言葉である。聖餐設定の言葉も、神の言葉である。出エジプトの過越の際に与えられた神の言葉と同じ。みことばに従う者は救われる。神の意志がそこにあると信じて、従う者は神の意志によって救われる。この救いを満たすのはイエスご自身であり、その体と血をいただく者はイエスと一つとされ、流された契約の血によって神の救いの約束を満たされる。

我々は、聖餐のたびにイエスの意志を聞いている。イエスの意志が我々を救い給うことを聞いている。イエスの最後の過越が満たされたことを思い起こす我々のうちに、イエスの意志が満たされる。イエスの体と血に与る者たちは、イエスの意志に従って生きる者とされる。我々が如何に罪深く、神から離れてしまうような人間であろうとも、弟子たちと同じく、イエスと結ばれる。十字架を前に逃げ出した弟子たちにも救いが与えられた。同じように、逃げ出したくなる我々にも救いは与えられる。我々のうちにイエスの意志が満たされるならば、我々もまた弟子たちのように雄々しく立っていくことができる。失われたように思える自分であろうとも、復活に与ることができる。無力であろうとも、神の力に満たされる。弱き者であろうとも、力強く支えていただける。愚かな者であろうとも、地上の知恵ある者を越える神の知恵、天からの知恵をいただくことができる。イエスが設定してくださった聖餐は、このような力を我々に満たし給う神の恵みである。

イエスが想い起こすようにと残して行かれた聖餐において、我々は地上の力をいただくのではない。天上の力をいただく。地上において取るに足りない者であろうとも、天上においては価値ある者とされる。地上において排除されていようとも、天上において迎え入れられる。地上において一人であろうとも、一人のお方のこどもとされる。イエスの体と血に与る聖餐が与える力は、地上においては愚かと思われるであろうが、天上においては賢さとして働く。地上においても天上においても、我々が力に満ちて生きるために、聖なる礼典がイエスによって残されている。「義と平和と喜び」が聖霊によって与えられるために、聖餐は設定されている。

我々のために、十字架を忍び、体を与え、血による契約を結んでくださったイエスは、神の力を我々のうちに奮ってくださる。あなたは、罪に落胆する必要はない。愚かさに落ち込む必要はない。無力さに失望することはない。神の力は、この世の力を越えた力。それゆえに、何も恐れる必要はない。すべてが神の意志に従って進行していくとき、我々は神の力に守られて、従い続けることができる。イエスを捨てた弟子たちも、そのように従い続けた。我々もまた、弟子たちと同じ弱き者。しかし、選ばれし者。神の恵みをいただく者。あなたが弱くとも主は強い。あなたが愚かであろうとも主は知恵あるお方。あなたが罪深くとも主は義なるお方。義しいことを成し遂げてくださる。過越を満たしてくださる。新しい契約を完成してくださる。

我々の罪を担い、十字架に磔にしてくださった主イエスの体と血が、あなたのうちに入り来たり、新しい契約を生きる者としてくださる。あなたは、主のもの。あなたは、神の子。あなたは、イエスの義を身にまとう者。神は、あなたの罪を見ない。キリストの義を見てくださる。誰もあなたを罪に定めることはできない。神があなたのうちに働いておられる。あなたはキリストの義、新しい契約に与る者である。

祈ります。

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