「終極を見る」

2022年4月15日(聖週金曜日)
ヨハネによる福音書19章17節~30節

「彼は見た、すでにすべてのことが終極に達してしまっていることを」と言われている。「すべてが完成した」、「すべてが完了した」とも訳される言葉であるが、「終極に達する」という意味の言葉が使われている。イエスは、十字架の上で終極に達してしまっているすべてを見たと述べられている。自らの死、自らの終わりを知ったということのように思える言葉である。しかし、終極に達するということは、経過すべきすべてを通って、残るもののないところまで達したということである。単に、終わったということではない。むしろ、完了であり、完成である終極までのすべてを経験したという意味である。そうであれば、それは「見る」というよりも、確認したことではないか。あるいは、思考の結果として帰結するものを認識したということではないか。それなのに、ヨハネ福音書は「見た」と述べている。もちろん、「見る」という言葉は「知る」という意味で用いられるものである。それでも、やはり「見た」のである。終極に達したことを見たとすれば、もちろん完了したことを見たとも言える。そうであれば、完了を見るとは、すべてが完成した姿が見えたという意味になる。すべてが完成した姿は、どこに見えたのであろうか。

イエスは十字架の上に磔になっている。そこからすべてが見えるのか。すべてを見るような高みにおられるのか。十字架の上が高いところであるとしても、すべてを見ることができるのであろうか。福音書に記されているイエスが見た世界は、十字架の下で繰り広げられている世界である。そこにおいて、イエスは母に「見よ」と言い、弟子に「見よ」と言う。この箇所には「見る」という言葉が多く出てくる。「見る」とは意志を持って受け入れることである。現れているものを受け入れる意志、これがなければ「見る」ことはできない。目に入っていても見ているとは言えない。むしろ、見えていても見てはいない。見たくないものは見ない。これが、我々人間の視覚において生じていることである。そうであれば、イエスが意志をもって見たのは、神によって見せられた世界をご自身のうちに受け入れて、「見た」ということである。たとえ足下だけであったとしても、神が見せた世界をイエスは意志をもって、受け入れて「見た」のである。

イエスが見た世界は、聖書に書かれていることが満たされている世界。ピラトという人間が書いた罪状書きであろうと、誰も変えることができない世界。それはまた、神が確定したことだからでもあろう。人間的に変更することができると考えている祭司長たちは、神の確定を覆すことができなかった。ピラトが答える言葉はまるで神の言葉のようである。「わたしが書いたものは、わたしが書いた」。確かに、罪状書きはピラトが書いたことである。しかし、ピラトの背後で神がおっしゃっているかのようである。「わたしが書いたものは、わたしが書いた」と神が語っているようである。神が確定したのは、ユダヤ人の王として、イエスは十字架に架けられたということなのである。人間的には変更できない言葉、神の意志、神の言葉が確定されている。預言者たちが語った言葉、詩編の作者が歌った言葉。それぞれに、人間の口に上った言葉。しかし、神がその人のうちで働き、語らせ、記させた言葉。このような神が書いた言葉がことごとく確定していく。イエスはこの世界を見ておられる。

さらに、イエスが見ている世界は、「見よ」と呼びかければ「見る」ことに応じる世界。「見よ」と言われて、「見る」者がイエスの言葉に従っている者。イエスの母、イエスの愛する弟子。彼らはイエスの言葉に従って、「見る」。そして、受け入れる。「見よ」と言われたイエスの意志を受け入れて、自らの意志をもって「見る」者たち。彼らが後のキリスト者、神の家族である。彼らは、単に「見る」だけではない。イエスが語った言葉を「聞く」者でもある。彼らは「聞く」者であり、「見る」者である。

母は、イエスの弟子を息子として「見る」。弟子は、イエスの母を母として「見る」。イエスがおっしゃったとおりに「見る」。マタイによる福音書19章29節でイエスがおっしゃっているとおり、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」ということである。また、マタイ12章50節ではこうおっしゃっている。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と。このような世界がイエスの足下にある。小さな世界のようでありながら、大いなる神の意志に従う世界の幕開けである。もはや人間的な恣意が入り込まない世界である。我々人間が恣意的に見るのではなく、イエスの言葉に従って見るような世界。この世界が始まるための「終極」が見えた。これが、イエスが見た終極であり、始まりである。

イエスが見た「終極」は、新しい始まりのためにすべてのものが備えられた世界。何も不足することのない世界。すべてが整えられ、「終極に達している」世界。これはいったい誰が整えたのか。終極まで導いたのは誰なのか。神である。イエスご自身が整えたのではなく、父なる神が整えてくださった。人間的なものが横行している地上であろうとも、天の父はそれらを越えて、整えてくださった。それが、イエスが見た「終極に達してしまっている」世界である。イエスの言葉を「聞く」者が従っている世界。イエスの言葉に従って「見る」者が見ている世界。それらの人々が、神の家族として生きている世界。このような世界が整えられるために、聖書の言葉が満たされた世界。聖書の言葉に従って、すべてのものが生きて働く世界。神の言葉が生きて働いている世界。これが「終極に達してしまっている」世界なのである。

イエスはこの世界の中に入ってしまっている。ヨハネによる福音書のイエスは、福音書の初めから、復活したお方としてご自身を現していた。先在のロゴスとして現していた。このお方は、神の言葉ロゴスが肉として生じたお方であった。それゆえに、ヨハネのイエスは復活までのすべてを経験したお方として語っている。十字架の上であろうと、イエスはすべてを経験しておられる。死を越えて、復活につながっている。十字架の上におけるイエスの経験している死は、復活のイエスご自身の視点からは過ぎ去っている死、越えられている死である。イエスは十字架の上で、ご自身の死を越えて生きるためのすべてが「終極に達してしまっている」と見たのである。従って、イエスご自身が「見る」世界は、復活の始まりの世界。「終極に達してしまっている」世界は、復活の世界と言っても良いものである。

十字架の上で、自らの肉としての地上の命の終わりを生きているイエスは、すでに終極に達してしまっている復活のいのちを見ている。すでに、すべてのものが復活のいのちへと、永遠のいのちへと向かって生きている世界を見ている。それが「完成した」世界である。十字架がもたらそうとしている世界である。地上の世界においては、未だ来ってはいない世界。しかし、イエスは未来を見ている。いや、未来から見ている。未来を生きているお方として見ている。すべてが終極に達してしまい、すべてが完成している世界の中で、イエスは十字架の上で、息を引き取った。それは原文では、「霊を引き渡した」となっている。

「引き渡す」という言葉は、そのままに渡すということである。「霊を引き渡す」とは、神によって与えられた霊を神にそのままに返すという意味である。肉として生じたイエスは、霊である神が肉をまとったのであるから、肉としては死んで、霊を引き渡したということである。イエスの地上的生は終わった。すべてが整えられて終わった。そして、すべてが新たに始まる世界が開かれた。十字架の死は、新しい始まり。完成した世界の始まり。この世界に生きているイエスが見た終極が十字架の下に広がり始めている。イエスの死が開いた世界が広がっていく。あなたもこの世界へと入れられている。イエスご自身が見た世界を、あなたも見るであろう。地上的な終わりを越えた世界を見るであろう。

祈ります。

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