「向きを変えて」

2022年4月17日(復活日主日)
ルカによる福音書24章1節~12節

「しかし、彼らは発見した、墓から転がされている石を」と語られている。墓から転がされた石は、もともと墓を塞いでいた石。その石が転がされ、墓が開いているのを、女たちは発見した。なぜ、墓を石で塞ぐのか。悪いものが出てこないようにと塞ぐのだろうか。遺体を守るためだろうか。「墓」というギリシア語ムネーメイオンは、想い起こすところという意味である。死んだ人の思い出を想い起こすところが「墓」である。それゆえに、墓は石で塞がれ、思い出が失われないように閉じられていた。ところが、その石が転がされ、墓は開いていたのである。入って見ると、主イエスの体を彼らは発見しなかった。そこにあると思っていたものを見つけることができなかった。主イエスの思い出を閉じ込めた墓が開き、主イエスの体が失われていた。それゆえに、女たちは「途方に暮れた」と記されている。

「途方に暮れる」と訳された言葉は、アポレオーというギリシア語で、道を見失うことを意味する。通常ならば、この道を進めば答えに行き着くはずなのに、答えに行き着かない。これをギリシア語でアポリアと言う。一つの問いに対して、相矛盾する二つの答えが出てしまうことを指す。一般的には解決不能なことを意味する言葉である。イエスの体があるはずの墓に行ったのに、イエスの体がない。誰かが盗んだのか、あるいはイエスが出ていったのか。どちらにしても、あり得ないことだと誰もが思う。遺体を盗んでどうするのか。死んだ人間が出ていくはずはない。答えが見つからず、女たちは「途方に暮れた」ということである。

相矛盾する答えは、別の次元に行き着かなければ解決不能である。それが、二人の男たちの言葉である。「なぜ、あなたがたは探しているのか、生きている方を、死者たちと共に」と彼らは言った。死者たちの中に、生きている方を探すということが矛盾したことなのだと彼らは言った。女たちは、確かに主イエスが死んだことを確認して、墓に葬られたことも確認したのだ。だからこそ、墓の中に主イエスの体があると思って、墓にやって来た。主イエスの思い出を想い起こし、残された体に香油を塗るために。しかし、二人の男たちが言う。「生きている方」と。そして重ねて言う。「彼はいない、ここには。むしろ、彼は起こされた。」と。つまり、主イエスは神によって起こされて、ここにはいないのだと、彼らは言う。そして、またこうも言った。「想い起こしなさい」と。

確かに、墓は想い起こす場所、イエスの思い出を想い起こす場所。ところが、二人の男たちが言う想い起こすべき事柄は、主イエスがガリラヤにおられた頃にあなたがたに語ったことだと言う。それは、人の子についての神の必然的出来事をイエスが語ったことであった。人の子は罪人たちの手に引き渡され、十字架に架けられ、三日目に復活することが必然であるという言葉であったと。それで、女たちは主が語った言葉を想い起こしたと言われている。ここで想い起こすべきは、主が語った言葉だった。主の思い出の出来事ではなかった。あの場所で、イエスはこんなことをしたとか、あんなふうに一緒に食事をしたとかと言った出来事を想い起こすのではなかった。しかし、我々が死んだ人たちを想い起こすのも、彼らとの思い出ではあるが、彼らが語った言葉ではないだろうか。あのとき、あんなことを言ったと想い起こす。あの言葉が、あの人らしいと想い起こす。それと同じようでありながら、主イエスの言葉は、神の必然的出来事を語っていた。それは、良い言葉だったとか、あの人らしい言葉だったというようなものではない。当時、耳にした弟子たちも女たちも誰も理解できなかった言葉であった。恐ろしいと感じる言葉だった。ところが、死んだはずの主イエスの体が見当たらない今、その言葉は違うように聞こえてきた。「復活する」ことが神の必然だと主が語っておられたと、彼女たちは受け入れた。それまで、受け入れることができなかった言葉を受け入れた。そのとき、彼らは解決不能なことの答えを得た。アポリアから解放されたのである。アポリアに突き当たったがゆえに、解放された。道が見えなかったが故に、道が見えた。それゆえに、女たちは「墓から向きを変えて、11人と残りの者たちすべてにこれらのことすべてを報告した」と記されている。

「墓から帰って」と訳されている言葉は、「墓から向きを変えて」である。それはつまり、想い起こす場所から向きを変えたことを意味している。もちろん、墓から戻ったとも言えるが、墓という思い出に浸る場所に向いていた自分たちの心の向きを変えたということであろう。彼らが向きを変えたのは、二人の男たちから言われたように、主イエスが語った言葉を想い起こしたからである。彼らの心の向きが変わった。もはや、思い出に浸る必要はないのだと向きを変えた。思い出に浸るべき主イエスの体を発見できなかったのだから、向きを変えるしかない。女たちは、アポリアに突き当たり、二人の男たちの言葉によって、主イエスが語った言葉を想い起こし、死の場所から生きているお方の場所へと向きを変えたのである。

ところが、その女たちの報告を聞いても、弟子たちは誰も信じなかった。ナンセンスだ、たわ言だと思ったと言うのである。そんなことがあるはずがないとしか思わなかった。しかし、彼女たちが報告したのは、二人の男たちが語った言葉であり、主イエスがガリラヤで語っていた言葉であった。それがたわ言だと言う男たちの方が愚かであると思える。確かに、主イエスの体が見つからなかったということはたわ言のように思えたであろう。それゆえに、ペトロは墓まで見に行ったのだ。弟子たちは、出来事だけを聞いたのであり、二人の男たちが告げた言葉を聞いてはいなかった。女たちが伝えたにも関わらず、弟子たちは主イエスの言葉を想い起こすことはなかった。弟子たちの方が聞く耳を持たないということである。それも仕方のないことであろう。実際に、二人の男たちに出会ってはいないのだから。彼らはアポリアに突き当たってはいないのだから。それゆえに、弟子たちは向きを変えることができなかった。

ペトロが「家に帰った」と訳されている言葉は、「彼は自分自身のところへ立ち去った」である。彼もまた、向きを変えるどころか、今までと同じところへと立ち去るのである。この立ち去りが示しているのは、自分自身のところが安心できるところであり、自分自身の居場所であるということである。ペトロもまた、不安定なところ、解決不能なところにはいたくなかったのだ。彼らが向きを変えることができなかったのは、主イエスの語られた言葉を想い起こすことがなかったからである。これが肝心なことであった。

我々は、自らが経験している安心へと立ち去る存在である。今まで経験したことがない。今まで誰もやったことがない。自分たちはこのようにして過ごしてきた。それだけがすべてであるかのように思い込んでいる。神の世界は、不思議なこと、驚くべきことで満ちているのに、受け入れようとしない。前例がないと切り捨てる。今まで通りで良しとする。そこからは何も生まれない。新しいことは生まれない。新しいことが生まれるには、道に行き迷うことが必要なのだ。アポリアが必要なのだ。解決不能なことこそが、神の言葉である。「わたしの方を見なさい」、「天を仰ぎなさい」とおっしゃる神の言葉である。人間的な次元を捨て、天的な次元、神の次元に目を移しなさいと神はアポリアを起こし給う。

そのとき、我々が見るべきは、また聞くべきは、出来事ではなく、言葉である。神の言葉である。神の語り給うた言葉である。神がわたしに語りかけておられると聞く者こそキリスト者。あなたに起こってくる道を見失う出来事は神の言葉。わたしを見なさいとおっしゃる言葉。この言葉が、我々に与えられている。理解不能な言葉と共に、主イエスの体と血として与えられている。向きを変えて生きるようにと与えられている。主イエスの体と血は、我々を神の言葉へと誘う真実の食べ物、真実の飲み物。感謝していただき、主に生きていただこう。

主のご復活おめでとうございます。

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