「目を開かれて」

2022年4月24日(復活後第1主日)
ルカによる福音書24章13節~35節

「理解に乏しい者たち、そして心の鈍い者たち、預言者たちが語ったすべてについて」とある男が言う。二人の弟子たちは、彼による聖書の解き明かしを聞きながら、「わたしたちの心が、火が点いた状態だった」と、後に想い起こした。それは、聖書の言葉、神の言葉が彼らの心に希望を与えたということであった。理解に乏しく、心の鈍い者たちの心に希望の火が点った。それは、ある男の聖書の解き明かしを聞いたからである。聖書の解き明かしの内容は、キリストが受難した後に、栄光に入るということであった。受難と栄光は必然的なのだと、二人の弟子たちは理解することになった。それが、彼らに希望の火を点した。受難で終わらない栄光への道。いや、受難の必然と栄光の必然は、密接につながっていると彼らは理解したのだ。この理解が開かれるために、ある男が彼らの道行きに同行した。

その男の話をもっと聞きたいと思ったのであろう。彼らは、一緒に泊まって欲しいと願い、夕食を共にした。男が、パンを祝福して裂き、彼らに渡した。そのとき、彼らの目が開かれたと聖書は語っている。パンを裂くことと目が開かれることが同期しているかのようである。その男がイエスであることを弟子たちは認識した。それまで、彼らの目には覆いがかかっていた。聖書の解き明かしをしてくださったときにも、彼らは男が誰であるかを認識しなかった。それでもなお、その男の解き明かしによって、聖書が彼らのうちに希望の火を点した。この希望の火によって、その男と共にいることを望むことにもなった。

聖書が理解されると、希望が見える。希望が見えると、目が開かれる。イエスが目の前にいると見えるようになる。聖書を理解できない間は、イエスが語りかけていることは認識できない。それでもなお、聖書の言葉そのものが、我々に希望の火を点す。イエスが、エマオ途上において弟子たちに点した火は、聖書を理解する火。聖書によって希望を生きるようにする火。この火こそが、我々の目を開く火である。

目を開かれた者たちは、聖書を理解し、イエスが目の前でわたしに語っておられると知る。語りかけるイエスが見える。パンを裂くイエス。ご自身の体と血を分け与えてくださったイエスを見る。それがエマオ途上で起こった神の出来事であった。

我々は聖書を理解しているのか。弟子たちのように、理解できないままに読んでいるのではないのか。理解できないということは、理解する心が鈍くなっていること。鈍いということは、理解力の欠乏である。理解力が欠乏している者は、聖書の言葉そのものを受け入れることができないということである。それが通常の我々人間の心である。なぜなら、聖書には通常の理解を越えた神の出来事が記されているからである。死んだ人間が復活するなどということは理解できるはずがない。それにも関わらず、理解するとすれば、我々の心の状態が変化したということである。どのように変化するのか。覆いがかかっていた心が開かれるように変化する。それはまた、覆いが何であるかも理解することにつながる。

女たちの報告を愚かだと思った弟子たち、そして二人の弟子たちの心を覆っていたのは何だったのか。理解したくないという思いではなかったか。死を恐れるがゆえの思いではなかったか。死を受け入れることができない心ではなかったか。大事な人の死を受け入れることができない。これは、我々人間がいつも経験することである。受け入れたくない気持ちになる。事は起こっているのに、受け入れることができない。まるで夢を見ているかのように、何が起こったのかと思っている。時間をかけて、我々は大切な人の死を受け入れていく。時間をかけても受け入れることができない場合もある。それは、殺害の場合。事故であろうとも、時間がかかるのに、殺害の場合は、さらに時間がかかる。殺害した相手を赦せない思いが、覆いとなる。二人の弟子たちも、イエスを殺害した人々を受け入れることができなかった。他者の無理解を非難する気持ちが、彼らの心を覆っていた。それゆえに、イエスは聖書が語る真理を彼らに解き明かした。神の必然を解き明かした。死を避けることはできない。殺害も起こるであろう。しかし、そこに神の意志があり、神の言葉の実現が必然的に生じると理解するには、神の意志が何であるかを知る必要がある。神の必然は、通常の人間的理解を越えていると知る必要がある。誰かが悪いのではない。むしろ、人間全体が悪いのだと理解する必要がある。人間全体の中に、自分自身も入っていると理解する必要がある。二人の弟子たちは、そのような理解へと開かれていった、イエスの解き明かしによって。

彼らは、イエスに賭けてきた自分たちの無念さを思っていた。しかし、神は人間の無念さを越えて、神ご自身の意志を貫徹なさると理解するとき、我々は自分自身を越えた大いなる意志の中に入れられていることを知る。二人の弟子たちもそうであった。大いなる神の意志が実現することが大事なことであって、彼らの希望が実現することが大事なことではない。彼らは、自らの希望、自らの意志の実現の頓挫に落胆していた。それを越えさせるのは、聖書そのもの。イエスはそのように聖書を解き明かした。それゆえに、彼らの心のうちに点された火は、彼らの希望ではない。神の希望である。神の意志に従う希望である。

神の必然的出来事こそが希望だと、二人の弟子たちは理解した。イエスの解き明かしは、彼らの罪の覆いを取り除いた。自分たちの希望であったイエスを殺害した人たちを恨む気持ちが消えて、自分たちも彼らと同じく神の意志を理解しない者であることを受け入れた。そのとき、彼らはイエスを見た。イエスご自身が彼らの前におられることを見た。その瞬間、イエスは見えなくなった。イエスが彼らに現れたのは、彼らが神の意志を理解する者となるためであった。イエスの復活は、そのように弟子たちに働いた。復活するということが、罪の赦しであるとは、このような意味であろう。

我々は、無理解な者を批判するが、自分こそが無理解であることを批判できない。それを批判できるのは聖書である。聖書を理解するということは、自らの罪を理解することである。罪の結果としての他者批判を越えることである。批判しても、何も始まらない。むしろ、神の意志に従うこと、神の意志を受け入れることによって、我々は新たな道を見出す。

捨てられたと思った出来事が、神がわたしの歩むべき道を見出させるために備えられていたと理解するとき、我々の心には希望の火が点される。排除されたと思った出来事が、我々に道を見出させる神の出来事だったと理解するとき、我々は非難する心を離れる。主イエスが忍んでくださったわたしの罪を想い起こす。そのとき、我々は神の言葉を受け入れている。如何なることにも、神の意志があり、神の意志の実現を妨げているのは、このわたしであることを知る。わたしの心にかかっている覆いがあることを知る。そのとき、我々は目を開かれている。

あなたが神の必然の中に入るために、イエスは現れてくださる。あなたが神の出来事を受け入れるために、イエスは十字架を負ってくださった。あなたが神の意志に従うために、イエスは語りかけてくださっていた。わたしの罪が、わたしの心を閉じていた。わたしの罪の覆いが、わたしの心を塞いでいた。イエスが目の前におられて、語っておられるのに、聞く耳を塞がれていた。これが、我々の現実であり、弟子たちの現実であった。この現実を越えさせるために、イエスは二人の弟子たちに現れてくださった。同時に、ペトロにも現れてくださっていた。

イエスは、同時に複数の場所で、複数の人たちにご自身を現し、神の意志を受け入れるように、目を開いてくださっていた。イエスの復活は、すべての人が神の意志に従うために、起こった神の出来事である。神の必然を受け入れるようにと、語りかける解き明かしである。聖書の言葉によってあなたの目が開かれるために、イエスは現れてくださる。イエスが語り給う神の言葉があなたの目を開いてくださる。自らを顧み、赦しの福音に耳を傾けていこう。あなたは赦されている。

祈ります。

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