「イエスの証明」

2022年5月1日(復活後第2主日)
ルカによる福音書24章36節~43節

「彼は彼らに手と足を示した。しかし、まだ喜びから不信仰であって、驚いているので、彼は彼らに言った。『あなたがたは何か食べるものを持っているか、ここに』」と記されている。イエスが、11人の弟子たちの真ん中に現れて、「平和、あなたがたに」と挨拶したとき、彼らは霊を見ているのだと考えた。つまり、自分たちが幽霊を見ていて、皆がどうかしてしまったのだと思ったのである。ところが、イエスは、ご自身が霊ではないことを示そうと、手と足を「見なさい」と言い、「触りなさい」とまで言った。いろいろ自分の中で考え巡らせている弟子たちに、手と足を示したのである。それでも不信仰であったため、イエスは食べ物を要求して、食べて見せた。ここまでしなければならないというのは、滑稽である。この出来事を起こしたのは、弟子たちの不信仰だと述べられている。

信仰と不信仰の違いは何か。信仰は素直に受け入れることであり、不信仰は考え巡らせて受け入れることができないということである。不信仰の場合、どれだけ説得しても受け入れない。自分でイエスの手と足に触れてみたとしても、信じない。自分が夢でも見ているのだと思ってしまうであろう。我々人間は、自分の感覚でさえも信じられないということが起こるのである。どうしてなのか。

「信じられず」と訳されているが、不信仰のことである。不信仰とは、地上的人間理性の判断を優先することである。聖書では、神との関係を拒絶することが不信仰であり、「罪」である。なぜなら、罪とは神との関係を人間が切ってしまうことだからである。さらに、弟子たちと同じように、見ても信じることができない。触っても信じることができない。これが人間中心的思考の結果である。これを原罪と言うのである。我々人間は、原罪によって、信じることができなくなっている存在なのである。この人間が素直に信じるということには至らない。どこまでも、自分のうちで議論してしまい、答えを出すことができない。そして、見ていること、触っていることを純粋に受け入れることができない。イエスは十字架で死んだのだという思考から離れることができない。死んだ人間が目の前に現れるということはあり得ないと考える。だから、わたしが見ているのは死んだ人間であって、幽霊なのだと思い込む。こうして、見ていることを素直に受け入れることができない原罪の中に留まるのである。

このような思考に落ち込んでしまうのが人間である。弟子たちも同じであった。自分のそれまでの経験からはあり得ないことは受け入れないということである。自分の経験だけが本当のことであって、その経験と合致しないことは間違いなのだと思い込む。こうして、発見しているのに、見逃してしまうということも起こる。そこにあるのに、見間違いだと思うわけである。これが、弟子たちの不信仰の姿である。

それでもなお、イエスは彼らにさまざまなことを提示して、彼らが受け入れるように働きかけている。主であるイエスが、弟子たちが不信仰を乗り越えることができるようにと懸命になっているのである。滑稽だと思える。まるで逆転している。主であるイエスが信じてもらおうと必死なのだ。それゆえに、魚まで食べてみせるとは、滑稽を通り越して、異常である。不信仰な弟子たちのためにここまでするのである。しかし、それがイエスの弟子たちを思う心の現れであろう。

ルカによる福音書のこの箇所は、ヨハネによる福音書のトマスに対するイエスの姿と同じようである。不信仰のゆえに、イエスを見なければ信じないと言うトマスのために、イエスはわざわざ現れてくださった。そして、同じように見て、触れよとまで言ってくださった。ルカの方は、それに加えて、魚まで食べる。ここまでして、イエスは弟子たちのうちに信仰を起こそうとしておられる。ここまで関わってくださるお方がいて、弟子たちは信じる者へと変えられていく。しかし、イエスを見て、触って、食べる姿を見たとしても、それで信じるわけではない。この後に、イエスが彼らに聖書を理解する理性を開くことがなければ、彼らは信じる者にはならないのである。つまり、今日の箇所は、弟子たちの不信仰に対するイエスの執拗なまでの関わりが記されているが、その心を受け入れることによって、彼らは聖書を理解するところにまで導かれるとも言えるのである。

イエスが弟子たちに現れるのは、復活したことを信じさせるためではない。むしろ、イエスが語っていた言葉、聖書に記されている神の言葉が真実であることを受け入れる信仰を起こすためである。それこそがイエスが生きた信仰の生なのである。その果てに、十字架があり、イエスの死に至るまでの神への従順ゆえに、復活がある。この信仰の生を生きることができるのだと信じることが、イエスが弟子たちに求めていることである。この信仰をイエスは彼らのうちに起こしたい。それゆえに、魚まで食べてみせる。そこまでして、弟子たちを信仰へと導いてくださるお方がいて、彼らは信じる者へと変えられていくのである。

我々自身も同じである。自然的に与えられている理性では、聖書に書かれていることを信じることはできない。あくまで、この世の理性判断でしか理解することができない。この世のことを越えた事柄については、理解するどころか拒絶してしまう。荒唐無稽な話だと捨て去ってしまう。それが、我々人間が聖書を読むときに起こることである。それでもなお、繰り返し聖書を読むうちに、聖書の言葉がわたしを造り替えていく。信じる者へと造り替えていく。聖書を読み続けない者は、ここに至ることはない。あくまで、聖書を良いことが書いてある本としか認識しない。ときどき読んで、自分が良いと思える言葉だけを聞く。躓くようなことが書いてある場合は、その言葉は捨ててしまう。聖書は信じて従うために与えられているのに。

我々は聖書を通して、信じることの神秘を与えられている。信じる者は強い。信じる者は忍耐する。信じる者は世を越えて生きる。イエスが生きたように生きようとする。それは、その結果に期待して生きるのではない。期待などというものは人間の思惑でしかない。むしろ、我々は自分の思惑を捨てて、神が語られたままに受け入れるのである。イエスが生きたままに従うのである。

もちろん、我々人間は罪深く、弱い存在である。それゆえに、思惑を捨てることができない。捨てるとしても何かを期待してしまう。こうして、純粋に捨てるのではなく、交換条件として捨てることに陥る。そこに信仰はない。むしろ、何も期待することなく、イエスが生きたように、神が語られたように生きようとするだけなのである。それが、イエスが死に至るまで神に従順であったということである。それがイエスの十字架が語っていることである。

我々人間は、イエスのように純粋にただ神に従うということができない。そのつもりで意気込んでいても、皆が同じことをしているところで、自分だけが「それで良いのか」とは言えず、皆と同じことをしてしまうのである。それは、自分で責任を負いたくないからである。信じるということは、自分で責任をもって生きることである。与えられた信仰に従って、責任をもって生きることである。そのような生き方は、十字架の主を仰ぐところからしか起こらない。十字架から聞こえてくるイエスの心を受け取るところから変えられていく。弟子たちも、魚まで食べてみせるイエスの言葉に耳を傾けざるを得なくなった。こうして、続く箇所で、イエスは弟子たちを宣教へと派遣するのである。その前段階が今日の箇所であり、イエスの証明によって、聞く耳を開かれた弟子たちなのである。

エマオ途上でみことばを解き明かしたイエス。魚まで食べて、ご自身の言葉を聞くように関わってくださったイエス。このイエスからの働きかけによって、弟子たちは聖書のみことばと一つとなって生きる者に変えられていった。イエスの証明が、弟子たちの信仰へとつながっている。ご自身のためではなく、弟子たちのために証明するイエスの心こそ、我々のうちに働く信仰の力なのである。

祈ります。

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