「イエスの声」

2022年5月8日(復活後第3主日)
ヨハネによる福音書10章22節~30節

「しかし、あなたがたは信じていない。なぜなら、あなたがたはわたしの羊たちに属する者として存在していないからである」とイエスはユダヤ人たちに言う。彼らが「キリストとしてあなたが存在しているのなら、わたしたちにはっきりと言え」と言ったからである。はっきり言われなければ分からないと彼らはイエスを非難している。彼らは、イエスがキリストであるのかどうかを判断できないがゆえに、イエスに自分がキリストだとはっきり言って欲しいのではあるが、たとえイエスが言ったとしても受け入れないであろう。それゆえに、イエスはこれまでも言ってきたのに、あなたがたは信じていないのだと答えている。信じることができないということは、受け入れないことであり、受け入れない人はイエスがどのように言ったとしても受け入れない。最初から受け入れないところに立っているからである。これが「イエスの羊たちに属する者」ではないという意味である。この言葉が表しているのは、生まれや出自のことである。彼らは、イエスの羊として生まれてはいないがゆえに、イエスを受け入れない。どうしても受け入れることができない。いや、どうしてもイエスを拒否してしまう。何故そうなるのか。自分たちが主導権を手にしたいからである。

信じるという事柄は、主導権を信じる相手に明け渡すことである。信頼して、すべてを任せることが信じることである。それゆえに、信じることを従順とも言う。キリストに信頼し従うことを求めたディートリッヒ・ボンヘッファーは「信従」(nachfolgeナッハフォルゲ)という本を書いている。キリストについていくことである。ついていくのだから、後に従う。それゆえに、先立つお方に信頼して、ついていくことが信じるという出来事なのである。このお方は嘘をつかない真実なお方だと分かるからついていく。そこには、人間の側から従うという行為と、神が従わせるという行為とが同時に起こっている。人間は神が従わせるがゆえに、従うのであり、従う行為自体は人間が行うとしても、従わせるのは神である。そのような意味においても、イエスの羊はイエスのものである。イエスの声を聞いている羊がイエスの羊である。聞いて、従う者がイエスの羊である。従わない者はイエスの羊ではない。最初からイエスのものではない。イエスがここで語っておられることは、そのようなことである。

我々はイエスの羊となることはできない。イエスの羊であるがゆえに、イエスの声を聞くことができる。イエスの声が耳に入ってきて、魂にまで届く。それがイエスの羊としての存在である。イエスの声はわたしのうちに入ってきた。あなたのうちに入ってきた。そして、あなたの魂を捉えた。それがイエスの声である。それは、あなたがイエスの羊だからである。

ユダヤ人たちが主導権を握っていたいという思いから抜け出せないのは、イエスに従う気がないからである。むしろ、イエスを自分たちに従わせたい。それゆえに、イエスにキリストとしてのしるしを求める。イエスが彼らにしるしを示すならば、彼らの手の内に入れられてしまい、彼らはイエスを従わせるであろう。結局、彼らの心が揺さぶられ、ヤキモキしているのは、彼ら自身がイエスをどうしても従わせることができないがゆえである。イエスはそのこともご存知である。だからこそ、「あなたがたは信じていない」としか言えないのである。それは信じて従うことができないことを認めるしかないという意味でもあろう。

我々人間がイエスに従うという事柄は、イエスの声と結びついているかどうかにかかっている。結びつこうとしても、最初から結びついていないならば、無理なのである。従って、イエスの声を聞いて従うという事柄は、我々がイエスの声をまっすぐに聞いていれば従うことができるというような事柄ではないのである。まっすぐに聞かなければならないと思って聞くわけでないからである。聞いている人は聞いている。聞いていない人は聞いていない。それだけのことである。あなたが聞いているならばイエスの羊である。聞いてないならばイエスの羊ではない。

あなたはもともとイエスの羊であるがゆえに、聞いているのであるが、最初から聞いているわけではない。我々人間は、イエスの羊であることを忘れているのである。忘れていた羊が、イエスの声を聞いて、少しずつイエスの羊であることを思い出していく。この声はどこかで聞いたことがあると思い出していく。その声の響き、その声の親しさ、その声の愛おしさを思い出していく。イエスの声を聞き続けていくことで、わたしはイエスの羊だったと思い出していく。このお方について行きたいと思い出していく。しかし、イエスの羊でなければ思い出すこともなく、声が聞こえても、魂にまで届くことはない。

イエスの声がわたしの魂を呼び出す。今、聞こえているイエスの声が、わたしの魂に記されていた原音と一致する。そのとき、我々はイエスの声と一つとされる。声がわたしを捉えて、声の中にわたしを取り込む。そのようにして、我々は自分自身を見出していく。自分がどこからきてどこへ行くのかを見出していく。イエスがニコデモに言った「風の声をあなたは聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかをあなたは知らない」ということと同じである。どこから来て、どこへ行くのかを知るのは、声の発生源を知っている羊だけである。イエスから来て、イエスへと向かっていく存在。それがキリスト者である。神から来て、神へと向かっていく存在。それが神のものである存在。我々は、声の発生源から生まれ、声の発生源へと向かっていくのだ。あなたを呼ぶ声があなたを造った。あなたを求める声があなたを導く。あなたを憐れむ声があなたの居場所となる。この声こそがイエスであり、あなたの主人なのだ。

ユダヤ人たちがイエスに求めているのは、自分たちが確認できるようなしるしである。何度も言ってきたイエスの声を聞いていながらも、はっきり言えと言うとしたら、彼らはイエスの声とは結びついてはいないのである。この結びつきを造り出すのは神である。この事実を受け入れる者は、イエスの声に結ばれるであろう。しかし、受け入れない者は結ばれることはない。そして、しるしという外側のことばかりに捕らわれてしまう。自分たちが確認できる外側のことばかりに捕らわれてしまう。結ばれなければならないのは、外側ではなく、内側である。我々の内なるものがイエスの声という内なるものに結ばれることである。そのとき、我々はイエスの外側がいかなる姿であろうとも、イエスに信頼することができる。イエスが十字架で死んでしまおうとも、イエスと神に信頼することができる。それが、声と結ばれた存在の在り方である。声によって呼び出された存在。それがイエスの羊。

十二人の弟子たちがイエスに従ったのも、外側を確認したからではない。彼らがイエスの声を聞いたからである。イエスに呼び出されたからである。旧約の預言者たちも神の声を聞いた。パウロもキリストの声を聞いた。復活したキリストを見た人たちも、見ただけでは信じるに至っていない。むしろ、イエスの声を聞いて、その魂が回復されなければならなかった。聖書を信じ、神の言葉に信頼するまでに、回復されなければならなかった。聖書の中に響いている神の声を聞かなければならなかった。イエスの声を聞いた弟子たちが、その言葉の根源的声に結びつけられた。最初からイエスの羊であることを想い起こした。ご復活の朝から、天に上げられるまでの40日の日々を、彼らはイエスの声を聞き続けた。自分たちが、イエスの羊たちを呼び集める働きを担うために、イエスの声を確認し続けた。

イエスの声と結ばれている存在を見出すのは、我々ではない。イエスの声である。イエスの声を我々が響かせるのではない。我々は、イエスの声を聞いていると証言するだけ。伝えるべきは、聖書そのもの。神の声が響いている神の言葉そのもの。イエスの声が響いている十字架そのもの。神の言葉である十字架が、イエスの羊を見出すであろう、イエスの声を共に聞く群れの中で。

祈ります。

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