「未来を開く十字架」

2022年5月15日(復活後第4主日)
ヨハネによる福音書13章31節~35節

「今、人の子は栄光化された。そして、神は、彼のうちで栄光化された。」とイエスは言う。この言葉は、ユダが出ていったときに語られている。従って、ここで言われている栄光化は十字架を意味している。十字架が栄光化であるということは、一般には理解できない事柄である。十字架は、その刑罰を受ける人にとっては栄光化などではなく、屈辱と苦しみを負わされることであり、一般的には栄光とは正反対のところに位置付けられるものである。ところが、イエスはこの十字架を「栄光化」だと言う。ここには一般社会における価値とは正反対の事柄が語られている。これを理解するのは、なかなかに難しい。イエスを十字架に架ける者にとっては、負け惜しみのように聞こえるであろう。単なる負け惜しみなのか。それとも神の現実なのか。それを分けるのは、不信仰と信仰の間の隔たりである。この違いは、特にヨハネによる福音書において顕著である。真実のものか、偽物かの違いが、同一の事柄において明らかになると、ヨハネによる福音書は語っている。それはまた、神であるロゴスが肉として生じるという出来事、イエスの降誕においても同じである。このお方を信じるか否かによって、ロゴスの受肉を受容するか否かが分かれる。さらに、イエスご自身に信頼することも、神に信頼することも、単なるこの世の幸いのためではないということも、ヨハネでは述べられている。新約聖書においては特に、苦難は引き受けることによって、神の出来事である受難に変容するのである。

神の意志に従う中で、被る苦難が、引き受けられた受難に変容する。それが受難の思想である。主イエスは、ユダが祭司長たちにご自身を引き渡すために出ていった後で、この受難を「栄光化」として語った。それはまた、イエスご自身が「栄光化される」だけではなく、イエスご自身において神が「栄光化される」ことでもあると述べておられる。イエスご自身の栄光化だけであれば、この世で報われないとしても我慢していれば、あの世で報われるであろうという生き方のように思われるであろう。我慢すれば報われるのだということであれば、結局報われることが求められていることになって、その結果がこの世で実現するのかまたはあの世で実現するのかの違いだけである。イエスは、そのような「栄光化」を語っておられるのではない。むしろ、受難こそが神の「栄光」であり、イエスにおける受難という苦しみは変わらないにも関わらず「栄光」だと言うのである。報われて、誉め讃えられるとは言わない。我々は、ここで使われている「栄光化」という言葉を誉め讃えられることだと考えてはいけない。むしろ、蔑まれることである。それこそが「栄光化」なのだとイエスは言うのである。それは、単にこの世で苦難を耐え忍んで誉め讃えられるところに行き着くということではなく、受難すること自体が「栄光化」そのものだということである。これは一般的には理解不能であり、我々キリスト者であろうとも、理解している人は少ない。

信仰を持って生きるということが、結果的にこの世において幸いになることだというのであれば、この世と同じ価値観の中に生きることになる。もちろん、信仰ゆえに苦難を乗り越えて、幸いになった人を否定するわけではない。だからと言って、この世における幸いとは正反対のところで生きた主イエスの言葉に従って生きることとは違うのだということを我々は忘れないようにしたい。主ご自身は、この世では幸いと言われる最期を生きたわけではない。あの十字架を仰ぐ我々は、その事実を知っている。そして、主は、あの十字架に従うようにと我々を招いておられる。そうであれば、我々もまた、主と共に苦難を引き受け、受難する生を生きるべく求めて行くべきであろう。

さて、受難が栄光であるというだけではなく、ご自身の受難における栄光化が、神の栄光化だと述べておられる。これも理解困難な言葉であるが、この言葉は、イエスと父とが一つであるということから語られている言葉である。イエスの栄光化は、父の栄光化であるということは、イエスと父との一体性からしか理解することはできない。イエスと父とは一体であるとは言え、別々の位格である。三位一体の三位の意味は、人格を表すペルソナが三つあるという意味で、人間ではないので位格と呼ぶ。人間で言えば、三つの人格が一体だということである。

ヨハネによる福音書では、父なる神のロゴスであるイエスは、神である。そのロゴスをもたらす聖霊は息のようなものであり、風のように吹く。我々が言葉を語るとき、我々のうちにある言葉そのものを言語として発する。そのときに、息がなければ、言語としての音声にはならない。言葉そのものと、言葉を発することと、息、これが一つとなって、我々は言葉を伝えることができる。発せられた言葉であるロゴスが栄光化されるとすれば、言葉そのものである神も栄光化されるのは必然である。その言葉であるロゴスが与える「新しい掟」は「互いを愛する」という掟である。従って、「新しい掟」はイエスの栄光化と同じ事柄だと言える。

「新しい掟」と言われているのは、何が新しいのだろうか。ここで「掟」と言われているのは律法のことである。「新しい律法」をイエスは与えるとおっしゃっている。一般に「律法」というものは、個人的な倫理として設定されている。十戒も、「あなた」と二人称単数で呼びかけられている。ところが、この「新しい律法」は相互的、複数的である。「あなたがた」と呼びかけられ、「互いを愛せ」と言われる。つまり、個人的に満たす律法を越えて、複数的に、相互的に満たされる律法が与えられたということである。この複数性は、父とイエスとの複数における一体性と関連している。他者を愛するとか、隣人を愛するという個別的な事柄ではなく、相互に愛し合うという複数的な事柄において、一体性が現れるということである。そのような意味においては、新しい律法は一体性という未来を開くのである。

一体性の律法は、一方にのみ求められるのではなく、他方にも求められる。愛し合うということは、ただ相手を愛するだけではなく、愛されることも含む事柄である。愛されている者として、愛するということが「あなたがたは愛せ、互いを」とイエスが言う新しい律法なのである。また、愛する者として、愛されているということでもある。これはどちらが先かということではない。愛するときには、愛されている者として愛する。愛されるときには、愛する者として愛される。ただ、愛を受けるだけではなく、相互に愛を与えるという関係を生きるということである。受動と能動が一体となっているのが、「あなたがたは愛せ、互いを」というイエスの戒めなのである。

我々は、どうしても先に「愛される」ことを求めてしまう。また、「愛する」人でも「愛される」ために「愛する」ということに陥る。一般的には、「愛される」人は「愛する」人だから愛されるのだと思われる。これは、先に見たように、この世の幸いを求める信仰と同じである。愛されないとしても愛するのか。愛した結果が十字架であっても愛するのか。イエスは、このように生きてくださった。イエスが愛した結果が十字架であったが、それが栄光化だと言うのは、そのような意味であろう。つまり、苦難を引き受ける受難に生きる人は、愛した結果を求めないということである。そのように互いを与え合う複数の信仰者が生きることを、イエスは求めておられるのではないのか。そのために、イエスはご自身を我々に与えてくださったのではないのか。

我々が、この世における幸いを求めるのではなく、あの世での幸いを求めて我慢するのでもない生を生きるようにと、イエスは新しい掟を与えてくださった。この掟は、十字架を栄光化だと受け取る信仰からのみ生きることができるものである。受難こそが、イエス・キリストの栄光化であるならば、我々も苦難を引き受けて生きて行こうとすること、これがイエスに従う者の求める道である。そのための糧を、イエスはご自身の体と血をもって与えてくださる。主が十字架を栄光化として生きてくださったのだ。我々もまた主に従う複数の者たちでありますように、共に祈ろう。

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