「聖霊を受けるため」

2022年5月29日(昇天主日)
ルカによる福音書24章44節~53節

「そのとき、彼は開いた、聖書を理解する彼らの理性を」と語られている。「心の目」と訳されている言葉は「理性」ヌースのことである。理解するためには「理性」が必要だからである。ここには「そのとき」と語られている。イエスが弟子たちの理性を開いたのは、どうして「そのとき」だったのか。もっと前に、開かなかったのはどうしてなのか。

イエスは、「まだ、あなたがたと共にいて、わたしがあなたがたに語った、わたしの言葉たちは、これらのことである」とおっしゃって、聖書がご自身について語っていることは満たされることが必然であるとおっしゃった。そのように語った「そのとき」、イエスは彼らの理性を開いたのである。つまり、イエスはもはや彼らと共にいることはないという前提があって、「そのとき」イエスは弟子たちの理性を開いたのである。イエスが共にいる間には、イエスが弟子たちに教えることができた。しかし、彼らを離れて、共にいることができなくなる「そのとき」彼らの理性を開いた。ということは、イエスと弟子たちの離別のときが「そのとき」だったのである。

この「そのとき」が来たったのは、イエスが復活し、父の許へと昇っていくからである。弟子たちの許を離れるからである。そのようなときにこそ、彼らの理性が開かれる必要があった。それは、彼らが聖霊を受けるために必要なイエスの最後の働きだったのである。昇天を前にしたイエスは、弟子たちが聖霊を受けることができるようにと、彼らの理性を開いた。聖霊を受けるために、開かれた「そのとき」彼らはイエスが語り続けた言葉を、自らの理性と共に理解するようにされたのである。

イエスが共におられたときには、弟子たちは他人事のように聞いていたのであろうか。自分自身のこととして聞いてはいなかったのだろうか。彼らは聞いているつもりだったであろう。しかし、イエスから見れば、また神の視点から見れば、弟子たちは自分のこととして聞いてはいなかった。自分の理性で聞いてはいなかった。さらに、人間の理性では理解不能な事柄を受け入れることはできなかった。それゆえに、彼らの理性は何も判断できず、責任も負わず、他人事のように思っていた。イエスの十字架を他の無理解なユダヤ人たちの所為にして、自分たちは落胆しているだけのところで生きていた。結局、弟子たちも責任を負わないということにおいては、ユダヤ人たちと同じなのである。

イエスは、弟子たちのそのような姿に対して、聖霊を受けるために必要なことを為してくださった。それが彼らの理性を開くということであった。聖霊を受けるということは、神の意志を理解し、神の意志に従うことを、自らの責任において負うことである。それが、イエスや神に負わされた苦役ではなく、彼ら自身の喜びとなるようにと、イエスは彼らの理性を開き、聖霊を受けるために必要な準備をしてくださった。

我々人間は、責任を逃れたいという思いに支配されることがある。責任を負わなければ、誰からも責められることはないと思う。ユダヤ人たちの所為にしておけば、自分たちは被害者だというところで自己弁護できる。弟子たちは、そのようなところにいたのであろう。エマオ途上の二人の弟子たちの言葉を聞けば、弟子たちがそのように考えていたことは明らかである。

神の必然であるイエスの受難を、弟子たちは理解できず、他者の所為にしていた。イエスの受難が必然であるならば、それは避けることができない事柄なのだし、神が起こし給うたことだということになる。神がイエスに十字架を負わせたわけではない。神がユダヤ人たちを扇動したわけでもない。しかし、神の言葉が語られたとき、神の言葉に従う者と従わない者に分かれるとすれば、従うことを起こすのも、従わないことを起こすことも「神の言葉」の働きなのである。神の言葉を理解できないと捨てることも、神の言葉を聞いたからである。ルターが言うように、神の言葉が人間を頑なにすることもあれば、受け入れる者にすることもある。どちらも神の言葉の働きであり、神の働き、神の言葉がその原因である。

このような二つの状態が神の言葉によって起こるとすれば、イエスが弟子たちに願ったのはもちろん神の言葉に従うことであろう。そのために、聖書を理解する彼らの理性を開いた。そこに書かれている事柄が、自分自身のことであると受け入れる理性を開いた。その受け入れによって、聖霊を受けることが可能とされるということでもある。だから、イエスはこうおっしゃっている。「高きところから、神の可能とする力をあなたがたが着せられるまで、都のうちに座していなさい」と。それは、「父の約束」だと言う。「高きところからの神の可能とする力を着せられる」ことが「聖霊降臨」の出来事であることは明らかである。そのとき、彼ら弟子たちは「証人」とされると言われている。

「証人」とは自らの経験に基づいて証しする人のことである。つまり、自らの経験を自分のうちに受け入れ、自らのこととして語るということである。それはまた、人間として自分がいかに頑張ったか、いかに働いたかを語るのではない。むしろ、自らの力の無さ、自らの罪深さを知る者として、神の力を証言するのが、ここで言われている「証人」の働きである。従って、彼らが聖霊を受けるということは、自らの罪を認識することであり、自らが責任を逃れようとしていたことを認めることでもある。それが、聖書が語っていることであると、受け入れることである。

聖書が我々に語っている事柄は、常に我々人間の罪である。その罪にもかかわらず、神はご自身の意志を実現し給うということである。さらに、神の意志である神の言葉に従うということは、自らの力ではなく、神の力によって従うということである。それゆえに、イエスはおっしゃっている。「高きところから、神の可能とする力を着せられるまで」と。聖霊を受けるためには、自らの無力さと罪深さの深みに座している必要がある。しかし、聖霊を受けたならば、神の可能とする力によって、神の力を証しする者へと変えられる。これが、イエスが今日、弟子たちに語っておられることである。そして、我々にも語っておられることである。

聖霊は「神の可能とする力」デュナミスのことである。この力は、我々人間の努力ではない。あくまで、神の力であり、神の働きを受け取る信仰に働くのである。それゆえに、イエスが弟子たちの理性を開くことによって、神の働きを受けることができるようにされたと言える。その出来事は、彼らのうちでは何故か分からないが、聖書が語っている事柄が自分のこととして受け止められるようにされたということである。これを人間的理性によって実現することはできない。神の働きを受け取る状態にされていなければ、実現されない。それが「神の必然」である。

「神の必然」という事柄は、ルターが言ったように、「すべてのことは神の絶対的必然性によって生じる」ということを受け入れることである。しかし、それは責任を神に負わせることではない。絶対的必然性に従うという人間の意志の働きが必要である。この人間の意志を喚起するのが聖霊の働きだということである。聖書を理解する理性と言われているが、理解するということは、「共に持ち運ぶ」という言葉である。神の言葉が聞こえてきたときに、アーメンと言って、神と共に神の言葉を持ち運ぶことが、聖書を理解する理性の働きだと言える。人間的には理解不能であろうとも、アーメンと受け入れる。これが信仰である。ただ、神に信頼している信仰である。この信仰を我々のうちに起こすために、イエスは天に昇る。イエスがそばにいなくなることで、イエスに頼っていた弟子たちが、自分の足で立つ者へと変えられる。これも聖霊の働きである。

イエスは、我々にも聖餐の度に、この聖霊を与えてくださる。ご自身の体と血をもって、我々のうちに生きてくださることで、我々は神の意志をアーメンと受け入れ、従う者へと変えられていく。今日も感謝して、高きところからの神の可能とする力に満たされていこう。

祈ります。

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